「自分と友達になろう」という標語とともに、どうしても言いたいのが「痛みと成長はワンセット」ってことだ。

「痛み」を避けていて、成長はないんだよなぁ、これが。

単純に言ってしまえば、「無力な自分を知る」っとことなんだと思う。

何もできないとか、何も知らないとか、あるいは間違った事を言ってしまった、やってしまった、自分勝手なことをやってしまったなどなど。

そういう自分の「あやまち」「ダメなところ」を、まずありのままに認めるっていうのが、最初に必要なことなんよね、成長するってことのためには。

で、この「無力で力のない、どうしようもないダメな奴」である、自分の味方になってくれるのが、唯一「自分」なわけです。どんなに他の人に頼りたくても、この最初のところだけは、自分に頼るしかない。

だから「自分と友達になる」ってのが大事なんだけどね。

伴侶でも親でも子供でも、誰であろうが、自分の痛みは引き受けてはくれません。ちゅうか、わからんのよね、他の人にには。そういう痛みは。

だから、自分で痛みを引き受けるしかない。

「あっちゃー、やってしもた」とかね。そういう痛い気持ちを、自分でちゃんとうけとめる。

その失敗して「あちゃー」と思ってる自分こそが、ありのままの自分であって、それを「こんなの自分じゃないやい」とか思うとか、「痛みは感じないように、やりすごしてしまおう。そのうち忘れるさ。」とかやってると、実は逆にどんどんストレスはたまる一方なんですね。

なんでか?

当たり前の話で、同じ失敗や嫌なこととかがやってきた時に「耐える力」が身に付いてないからなんですね。
だから「また同じような痛みがやってきたらどうしよう」と思うと不安でしょうがなくなる。また目をつぶってやりすごすしかないってことになる。「嫌だなぁ」と思う。だから将来が全部、「不安」になっちゃうわけですね。

こういう構造だから、逃げれば逃げるほど、人生が辛くなる。

何も知らない子供の時は何の重荷もないわけですよ。でも、そのうち成人すると責任とかなんとか、そういうものが目の前に表れて「引き受けてちょうだい」って挨拶してくる。

で、これから「逃げて」しまうと、もうずーっとそれが重荷になるわけです。どうしていいのかわからない。パニックになる。

で、「逃げる」対象を増やせば増やすほど、人生はつまらなく、苦しいものになって行きますね。

でも、責任を引き受け、痛みを味わうようにするとどうなるかというと、「まぁ、この程度の痛みなら、なんとかなるか」というように「痛み」に慣れていくんですね。

たぶん、筋肉を鍛えるのと同じようなことなんだと思う。精神を鍛えるには、責任を引き受け、痛みをキチンと味わって行くことが必要なんだろうな、と思うのです。

で、その痛みを耐えて引き受けていくために、最良の友である「自分」と仲良くやっていく必要があるわけですね。自分と友達になる、ということは、この痛みに耐えるためにこそ、必要なことなわけです。

で、話は依存症のことにまたなってしまうんですが、この引き受けるべき痛みを引き受けずにいると、どうなるかというと、不安でたまらないので、何かに依存するしかなくなるわけです。

たとえば、うちの父の場合でいうと、母親に捨てられたという事実があったわけです。まぁ致し方ない事情だったんだし、仕方ないよな、と、ありのままの自分の運命を受け入れて、つまり「痛みを引き受けて」いれば、それが大きな糧になったはずなんですが、そのありのままの痛みをちゃんと引き受けることができなかったので、たぶん「なんで俺だけ、こんなに不幸なんだ!」と、ありのままの現実を受け入れるのを拒否したんだと思うんですね。

ようは「否認」です。

で、この「否認」をすると、自分の感情と事実とのズレ、ギャップが生じますから、いろいろと精神的に不安にならざるを得ません。なので、痛みを引き受けなかった弱さを、何か別の対象で紛らわせる必要が出てくるのですね。
それがギャンブル依存症とかアルコール依存症とか子供への依存「共依存」だったりするわけです。

もう、このへんは、すごくはっきりしてると思う。逃げるから依存対象が必要なんだよな。
逃げずに引き受けたら、自分でまかなうしかないから、自分と仲良くなって、全力で立ち向かうしかなくなるのだ。

昔、太極拳を習ったことがあって、初日、立禅と言って、膝を曲げて少し体に負荷をかける立ち方を習ったのだけれど、これが想像以上に体力を使っていて、一時間の間、基本は立禅のポーズを維持しながら練習するので、次の日は足が痛くてパンパンになってしまったのですね。

でも、そんなの一日目だけなんだよ。あとはもう全然痛くない。ちょっと膝を曲げて立つ程度のことだから、たかが知れている。

ほんと、最初だけなんだよなー、痛いのは。

だから痛みと成長はワンセットなんだとつくづく思う。

心の強さも体の強さも同じ事です。最初に基礎体力をキチンと養っておくかどうかが、残り人生をイキイキと生きるかどうかを決める重要な分かれ道になるんですよ。

で、この「痛みに耐えて」得られる力こそ「自尊心」なんです。「私はやれる。」「できる」「私は素晴らしい」っていう、そういう自己肯定力。
それが自尊心。

で、この自尊心が低いと、すぐに精神的に傷つきます。自尊心が低いから傷つくんですけどね。でも、その自分の自尊心の低さは棚にあげて、傷ついたことの責任を、他者になすりつけます。そしてスネます。「私が悪いんじゃないんだ、あいつが私を傷つけたんだ」とカラに閉じこもります。

でも、違う。傷ついたとか言ってるけど、実は「痛み」を引き受けてはいないんですね。痛みを真正面から引き受けて「これは私が引き受けるべきことなんだ、他の誰になすりつけることも出来ないんだ」というようにして、しっかり痛みを味わえば、心が鍛えられて、もっとしなやかに、イキイキと生きられるようになる。それをして「自尊心が高い」と言うわけです。

なのに、それをしないから自尊心が育たない。いつまでも「傷つけられた」という責任転嫁から一歩も外へ出られない。自分で自分と友達になって、避けられない現実を見ないから、現実が全て不安のタネになってしまう。また「痛いことつきつけられたらイヤだなぁ」と思って生きるしかなくなる。

ちゃんと味わえば、そんなものどうってことなくなるのに。

なにやってんの。

ってことです。

ちゃんと痛みを味わいなさいってことです。

太極拳には24のポーズがありまして、(簡化太極拳と言って、一番簡単なもの。)そのポーズがゆっくりと変化していく踊りみたいなものなのですが、そのすべてのポーズは「立禅」のバリエーションなんですね。

で、この「立禅」の腰の落とし方で、太極拳の「キツさ」が変わるわけです。低く腰を落とせば落とすほど、きつくて、あんまり低くしちゃダメなんです。初心者は。

で、その初心者の最初の最初に学ばせる部分こそが「立禅」で、だからこれは、もっとも基本のポーズで、これが出来なけりゃ、太極拳を学ぶことそのものが成立しないんですね。

で、半年かけて太極拳の全ポーズを習いに行きましたが、結局足が痛くてたまらなかったのは、本当に初日だけでした。

まぁ、いかに体力がなかったか、ということです。

でも、最初の一日だけなんよね。ほんとに。痛いのは。

このあたりは、痛みを引き受ける、責任を引き受けるというのも、まったく一緒なのです。

痛いのは最初だけ。

で、いったん痛みをちゃんと引き受けて、キチンと味わえば、後はそれが基礎力になって、次々と次の「型」を学んでいくことができるのです。

だから痛みから逃げたらダメなんだよなぁ。ほんとにそう思う。

逃げると結局、「酒」「バクチ」「食事」「子供」などなど、いろんなものに依存して生きていくしかなくなるんだから。

拒食症とか過食症も、結局は同じ仕組みだし、児童虐待も同じ仕組み。バクチ狂いもアル中も同じ仕組み。みーーーーんな根っこは同じ。

「自分が引き受けるべき痛みを味わおうとしなかった」

ということです。

で、これを「味わう」という言い方をしてるところを、自尊心の低い人は「勝手な言い分だ。痛いものは痛い」とか「痛いものを痛くないという言葉のごまかしだ」としか思えないんですね。

そこ。

そここそが、人生をバカにしてる、ダメなとらえ方なんだよなぁ。

進んで痛みを味わって行った時こそ、大いなる気付きが、それこそ山のようにやってくるのです。たくさんの幸せのタネを獲得することができる。立禅をやっただけで、24パターンの型の受け入れ体制が整うのと同じ、「すごいこと」が人生に起きるんです。

それは本当に自分でも「奇跡」みたいにしか思えないことも、あるでしょう。とにかくすごい気付きが次々に生まれるのですよ。ものすごい幸せが、次々にやってくる。

でもそれは、痛みを引き受けて、「立禅」ができる心の体力、「自尊心」が身に付いてないと、受け取ること自体ができない種類のものなんですね。

ほんと、最初に痛みを味わおうと覚悟しない限り、それは受け取れない。

そういう種類の出来事が、この世にはあふれてるのですよ。ものすごい量で。

その最初の扉を開くのが「痛みを引き受ける」なんだけどねぇ。これを避ける人が多い。

もったいない。

ほんとうにそう思う。

ま。そういうことで。

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