■コントロールできないという病気
2006年3月4日結局、依存症というのは、「コントロールできない病気」なのだ。
ギャンブル依存症の人は、週末の競馬のことを思い浮かべるのが止められないし、アルコール依存症の人は最初の一杯がガマンできないし、子供依存症の親はつい自分の失敗の言い訳を「子供のためだ」とか屁理屈つけるのをやめられない。
で、実は自分が一番苦しんでいる。
なんで苦しいかというと、「コントロールできない病気」を治すには、「コントロール」する以外にないからだ。
つまり、「できない」ことを「やらねば」と思うから苦しいのだ。あるいは、「できない」ことを「できる」ということにして、でも自信は持てず、そのために心に矛盾が生まれて、無意識下で、うすぼんやりと、じとーっと苦しむか、だ。
根本的には、依存症の苦しみというのは、こういう苦しさである。
心の気分がどうとか言う前に、「コントロールできていない自分」という事実が先行して存在しているのである。それに気付いているかどうかは別にして、まず「コントロールできていない」という「症状」が先に存在しているのだ。ただ、それをちゃんと認めているかどうかで反応が違うというだけのことだ。
キチンと考えれば、「コントロールできない」という問題の解決策が「コントロールすること」なのだから、本来は、答えになっていないのだ。「いや、それができないから問題なんでしょうが」という堂々巡りになるわけで。
だから、本当は、この事実に気付くと、途方に暮れるのだ。どうしようもないという気持ちになる。八方ふさがりの行き止まりになる。これが依存症の基本的な「気分」である。
これは僕が「恋愛恐怖症である」と自覚したときに気付いたことだ。恐怖症も同じような構造である。恋愛そのものをぶち壊したくなる、内面から湧いてくる衝動をどうしても抑えられない。その「症状」が先に存在しているのである。で、この問題の解決策は、「その衝動を抑えること」なのだけど、その「できないこと」を「できるようにする」のが解決策だと言われても途方に暮れるだけなのだ。
なんとかしなくちゃ、とは思っても、「できないこと」を「できる」ようにはならないから、結局、依存症にせよ、恐怖症にせよ、心の病は放置されてしまう。
でも、実際にはコントロールできないからこそ「病気」なのだ。まずなにより病気なのだと気付くことが重要で、そこに気付けるかどうかは大きなターニングポイントになる。とりあえず僕の場合は、さっさと心療内科にでかけてカウンセリングというか催眠療法を受けた。とりあえずは、そういうきっかけが大きな転機になるものだ。
ただし。気付いたところで、「できないことをやる」という苦しさ、根本的矛盾は解決しない。
だから、気付いてない時より、気付いた時の方が、苦しさはより一層大きくなるんだよね。でも、それでも気付いてないよりは、はるかに回復に近づいてるってことなのだけど、これを避けてる人も多い。というか、依存症がひどくなるほど、この苦しみを避けよう、避けようとするわね。
つくづく、「気付いた方が苦しい」からこそ、気付かないようにしてしまうのが人間なのだなぁ、と思うしかないのだけれど。
「私は何もコントロールできてないじゃないか!」
と気付くことこそが、実は「コントロールできる」ための第一歩なのだ。わかる? これを「コントロールできてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」とか思っている限り、回復はない。永遠にない。
まず、「私はコントロールできてません。」という事実を認めないとダメなのだ。これだけは避けられない。で、これを本当に正しく認めるのは、すごく苦しいのだ。
これに気付くと本当に途方に暮れる。「どうしようもないじゃん」って思う。お先真っ暗よって思う。ものすごく苦しい。だって解決策がないんだもん。(でも実は解決策はある。あるんだけど、この時点では絶対に気付けない。)
ものすごく矛盾したことなのだけど、本当にそうなのだから仕方ない。「できてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」と思い込んでる人ほど、「できてない自分」を認めるのが苦しい。だって途方に暮れるしかないのが、見えてるからです。
でも、やっぱり、それでも気付いたほうがいい。その方がはるかに、圧倒的に幸せになれる。
なぜなら、気付かないままでいたら、人生を棒にふるから。どんどん不幸になっていくからだ。
ここしばらく依存症に関してもいろいろ調べたからよく分かる。
各種依存症には依存症者同士が支え合う、自助グループがあるのだが、そこで語られている12ステップにしても、一番最初のステップが「パワーレス」なのである。
こういうものだ。
●1.私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
たいていは、こういう文章からはじまる。「アディクション」というのは中毒症状のことで、自助グループの対象によって「アディクション」のところがアルコールになったり、ギャンブルになったりするということである。
そう。まず無力なのだ。コントロールできないのだ。そういう力をあなたは持っていないのだ。力がない、のである。
永遠に「力がないまま」なわけではない。力は身につけることが可能だ。でも、最初は誰でも持っていない。それはしょうがない。当たり前のことだ。ギターを弾いたこともないのに、持っていきなり弾けるはずがないではないか。
いままでアルコール依存症になったことがないのだから、治し方を知らないのは当たり前なのだ。心のコントロールの仕方なんて、教えてくれる人はいなかったんだから、知らなくて当然なんだ。そういうこと。
だからまず、「コントロールできていない」という事実を認めて、「できている」「やればできるさ」というウソとか否認をすっぱりやめることが、まず何より、一番先に必要なことなのだ。
この後、回復の度合いに応じて、12のステップを順に踏んでいって回復への道を歩むことになるのだけれど、まず最初は「コントロールできてないよ、私は」と事実を正しく知るところから始まるのだ。これを否認してる限り、回復はありえない。
(否認はいちおう依存症やアダルトチルドレン関連の用語です。ありのままの事実を認めない態度です。)
残りの11ステップの話も書きたいけど、それ以前に、やっぱりこの事実を認めるのが嫌で、その部分でうろちょろしてる人の方がはるかに多いと思うので、ここだけ書いておきます。
で。
ここでは、この「気付き」をしないとどうなるのか、という事について、ちょっと書いておきたい。これもまぁ考えればすぐにわかることなんだけど、依存症のまっただ中にいてる人は、こういう事にも気づけないと思うので、あえて書きます。
まず、もし、自分が依存症と気付かないままにしておくと、「世の中全体との戦い」になります。
何故か?
もともと「できていない」ことを「できている」とごまかしているのだから大きな矛盾が生じるのだ。この矛盾は、考え方や行動におかしなところを出させてしまう。大なり小なりね。
そして、その「おかしさ」を身の回りの親しい人から注意されるのだが、その注意された点を、これまた直す気になれない。だから世間との全面戦争になっていくということなのだ。心がやすらぐ事自体がなくなっていく。
たとえば、最初はとても小さな事から始まる。ギャンブル依存症の人間が着るものに無頓着になったり、アルコール依存症の主婦が子供の食事に手抜きになったりするのが、いちばんわかりやすい例だろう。とにかく依存対象の事しか考えてないから、そのほかの事が軒並み標準以下になる。で、周りから、標準以下になっていると指摘されても、それを受け入れない。否認する。
子供依存の場合は、子供に関することはなんだかんだと考えたり言ったりするが、「自分のこと」をどうするかとか「自分が何をどう感じているのか」とか、あるいは「自分自身の成長は」とかがまったくおろそかになる。
結局社会人として「おかしい」存在になってしまうのだ。ありのままの自分を把握していないってことですね。これは相当にやばい。
でも、それでも、ありのままの現実を認めないので、そういう矛盾をごまかすために「妄想」を作り出すようになります。人にもよるし依存の対象にもよるし、人それぞれでしょうが、たとえば、注意してくれた人を「最近、あの人は怒りっぽくなったよな」とかレッテル張りして安心するとかですね。そういうところから始まります。自分の問題を省みない。
自分で自分を騙すわけです。
で、それはウソですから、より大きな矛盾を抱えこんでしまうことになります。ひとつウソをついたら、もっと大きなウソをつかないとダメになるのと同じことです。
で、この「矛盾している不安」を押し隠すために、より一層、依存症がひどくなります。アルコール依存症なら、よけいに酒を飲むようになるし、ギャンブル依存症なら「ギャンブルだけが楽しみなんだ、ほっといてくれ」とかになるし、子供依存だと「子供を大切にして何が悪い」ってなる。
全部ごまかしです。
で、より一層、依存がひどくなりまして、生活が「アルコールだけ」「ギャンブルだけ」「子供だけ」になります。
ファッションについて敏感になるとか、おいしい料理に敏感になるとか、そういうのがどんどん減っていく。「感じる」のが苦手になります。
「コントロールできていない」という事実がもたらす「痛み」から逃げているからですね。痛いと感じることを避けるようになるわけです。
痛みを感じないようにするということは、喜びも感じなくなるという事です。それは単に「感じる能力」そのものを下げているだけなんですね。感じる能力を高めるという事は、痛みも強烈に感じるという事なんですね。人生には喜びもあるけれど、悲しみや痛みもある。どれかをだけ選択して感じるようにして、他は感じないようにする、という訳にはいかないのです。
で、「嫌な感じ」が生まれる原因を直視して、痛みをしっかり味わい尽くして、「もう、こんな苦しい体験は味わいたくないぞ」と思って、その原因を取り除けば、「嫌な感じ」が減る、ということはありますが、「嫌な感じ」を避けている限りは、原因究明もできませんから、その「嫌な感じ」は絶対に減らない。そういう風に世の中はできているのです。
なので、「あまり感じないようにして生きていく」というのはもう、ずーっと、ジトーーーーっとした気持ち悪さとともに生きていくことにしかなりませんから、少なくとも私は嫌です。
問題は直視して、自分に悪いところがあるなら、出来る範囲で修正して、自分でコントロールできないなら、周りの人とともに、あるいは世の中全体と一体化して、なんとかやっていきます。
そりゃ「できてない自分」を認めるのは、ものすごく辛いですが、そんなもの最初だけです。克服して乗り越えたら「自信」がつきます。これこそが生きる糧であります。
痛みはしっかり味わって、痛みとともに過ごしていけば、そこから学べることもすごく多いのです。だからそれを避けようとしてはいけないのです。
だから僕は「感じる」のを避けようとしている人には、ガンガンにボリュームを上げて痛みを感じるようにするんですがね。
その方が幸せになれるんだから。
(いやまぁ、これは押しつけでしかないんだけどね。で、まだどうもボリュームのコントロールは下手くそではあるらしいのだけど。)
ほんと。だから本当に気付いて欲しいと思う。
依存症でない人間からみれば「おいおい、それはまずいぞ、コントロールできてないぞ」というのは自明の理なわけです。だって依存してないから、ものすごくよくわかる。
依存症者を「あんた依存症になってるよ」と判定できるのは、依存症にかかる前の人間か、依存症から脱した人間かのどちらかであって、依存症者同士では、絶対に気付くことはできないんですね。
だから、友達に聞いてもあんまり役に立たないとかあるから怖い。
アルコール依存症者はアルコール依存症者が好きです。だって「お前はアルコール依存症者だ。だってコントロールできてないから!」とは言わないですから。言うわけないもんな。
「この人は、アルコール依存だ!」と判定できるのは、アルコールに依存してない人だし、「ギャンブル依存だ!」と判定できるのはギャンブルしてない人だし、「子供依存だ!」と判定できるのは子供のいてない人でしょう。
依存症のまっただ中にいる人は、そこがまずわかっていない。
「飲まない奴に何がわかる」とか「馬の名前も知らないくせに何を言うか」とか「子供を育てたこともないのに何がわかるか」とか言う。そういう言い方をしてしまうこと自体がすでに「客観的な自己がどのようなものであるか」の受け入れ拒否であって、すでに「やめられない病」の始まりなのである、という事が、ちーーーーーーーーーーーともわかってない、ということなわけです。
ようは、「他者から見てどう見えるか」という事実を拒否してるわけです。まさに「否認」ですな。
あなたが自分で自分を「まとも」と思っていても、依存症でない人間から見たら、「完全に依存症だよそれは。」っていうのはあるわけでね。
そこは「事実」として認識するしかないわけです。
つまり「症状」が先に先行してるってこと。自分がコントロールするとかなんとか以前に「症状」が発症している。
しかも、他者が気付いて注意するということは、相当に進んでいるということなわけです。普通は心の中の問題は深く静かに潜行していて、周りには気付かないものですから。
でも、周りに気付いた人がいた、ってことは、その問題が表に出てきたってことでね。
それは進行しているからこそなわけ。
だから、誰かから何か注意を受けたら、即「そうなのか。やばいぞ」と思わないとダメなのだ。いつまでも「否認」をやってる場合ではない。
…ん、だけどね。
でも、そこに気付けないのが人間なんだよなぁ…。
というのが、いまの私の感想ですな。
うむー。
ギャンブル依存症の人は、週末の競馬のことを思い浮かべるのが止められないし、アルコール依存症の人は最初の一杯がガマンできないし、子供依存症の親はつい自分の失敗の言い訳を「子供のためだ」とか屁理屈つけるのをやめられない。
で、実は自分が一番苦しんでいる。
なんで苦しいかというと、「コントロールできない病気」を治すには、「コントロール」する以外にないからだ。
つまり、「できない」ことを「やらねば」と思うから苦しいのだ。あるいは、「できない」ことを「できる」ということにして、でも自信は持てず、そのために心に矛盾が生まれて、無意識下で、うすぼんやりと、じとーっと苦しむか、だ。
根本的には、依存症の苦しみというのは、こういう苦しさである。
心の気分がどうとか言う前に、「コントロールできていない自分」という事実が先行して存在しているのである。それに気付いているかどうかは別にして、まず「コントロールできていない」という「症状」が先に存在しているのだ。ただ、それをちゃんと認めているかどうかで反応が違うというだけのことだ。
キチンと考えれば、「コントロールできない」という問題の解決策が「コントロールすること」なのだから、本来は、答えになっていないのだ。「いや、それができないから問題なんでしょうが」という堂々巡りになるわけで。
だから、本当は、この事実に気付くと、途方に暮れるのだ。どうしようもないという気持ちになる。八方ふさがりの行き止まりになる。これが依存症の基本的な「気分」である。
これは僕が「恋愛恐怖症である」と自覚したときに気付いたことだ。恐怖症も同じような構造である。恋愛そのものをぶち壊したくなる、内面から湧いてくる衝動をどうしても抑えられない。その「症状」が先に存在しているのである。で、この問題の解決策は、「その衝動を抑えること」なのだけど、その「できないこと」を「できるようにする」のが解決策だと言われても途方に暮れるだけなのだ。
なんとかしなくちゃ、とは思っても、「できないこと」を「できる」ようにはならないから、結局、依存症にせよ、恐怖症にせよ、心の病は放置されてしまう。
でも、実際にはコントロールできないからこそ「病気」なのだ。まずなにより病気なのだと気付くことが重要で、そこに気付けるかどうかは大きなターニングポイントになる。とりあえず僕の場合は、さっさと心療内科にでかけてカウンセリングというか催眠療法を受けた。とりあえずは、そういうきっかけが大きな転機になるものだ。
ただし。気付いたところで、「できないことをやる」という苦しさ、根本的矛盾は解決しない。
だから、気付いてない時より、気付いた時の方が、苦しさはより一層大きくなるんだよね。でも、それでも気付いてないよりは、はるかに回復に近づいてるってことなのだけど、これを避けてる人も多い。というか、依存症がひどくなるほど、この苦しみを避けよう、避けようとするわね。
つくづく、「気付いた方が苦しい」からこそ、気付かないようにしてしまうのが人間なのだなぁ、と思うしかないのだけれど。
「私は何もコントロールできてないじゃないか!」
と気付くことこそが、実は「コントロールできる」ための第一歩なのだ。わかる? これを「コントロールできてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」とか思っている限り、回復はない。永遠にない。
まず、「私はコントロールできてません。」という事実を認めないとダメなのだ。これだけは避けられない。で、これを本当に正しく認めるのは、すごく苦しいのだ。
これに気付くと本当に途方に暮れる。「どうしようもないじゃん」って思う。お先真っ暗よって思う。ものすごく苦しい。だって解決策がないんだもん。(でも実は解決策はある。あるんだけど、この時点では絶対に気付けない。)
ものすごく矛盾したことなのだけど、本当にそうなのだから仕方ない。「できてるさ」とか「やろうと思えばできるさ」と思い込んでる人ほど、「できてない自分」を認めるのが苦しい。だって途方に暮れるしかないのが、見えてるからです。
でも、やっぱり、それでも気付いたほうがいい。その方がはるかに、圧倒的に幸せになれる。
なぜなら、気付かないままでいたら、人生を棒にふるから。どんどん不幸になっていくからだ。
ここしばらく依存症に関してもいろいろ調べたからよく分かる。
各種依存症には依存症者同士が支え合う、自助グループがあるのだが、そこで語られている12ステップにしても、一番最初のステップが「パワーレス」なのである。
こういうものだ。
●1.私たちはアディクションの影響に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
たいていは、こういう文章からはじまる。「アディクション」というのは中毒症状のことで、自助グループの対象によって「アディクション」のところがアルコールになったり、ギャンブルになったりするということである。
そう。まず無力なのだ。コントロールできないのだ。そういう力をあなたは持っていないのだ。力がない、のである。
永遠に「力がないまま」なわけではない。力は身につけることが可能だ。でも、最初は誰でも持っていない。それはしょうがない。当たり前のことだ。ギターを弾いたこともないのに、持っていきなり弾けるはずがないではないか。
いままでアルコール依存症になったことがないのだから、治し方を知らないのは当たり前なのだ。心のコントロールの仕方なんて、教えてくれる人はいなかったんだから、知らなくて当然なんだ。そういうこと。
だからまず、「コントロールできていない」という事実を認めて、「できている」「やればできるさ」というウソとか否認をすっぱりやめることが、まず何より、一番先に必要なことなのだ。
この後、回復の度合いに応じて、12のステップを順に踏んでいって回復への道を歩むことになるのだけれど、まず最初は「コントロールできてないよ、私は」と事実を正しく知るところから始まるのだ。これを否認してる限り、回復はありえない。
(否認はいちおう依存症やアダルトチルドレン関連の用語です。ありのままの事実を認めない態度です。)
残りの11ステップの話も書きたいけど、それ以前に、やっぱりこの事実を認めるのが嫌で、その部分でうろちょろしてる人の方がはるかに多いと思うので、ここだけ書いておきます。
で。
ここでは、この「気付き」をしないとどうなるのか、という事について、ちょっと書いておきたい。これもまぁ考えればすぐにわかることなんだけど、依存症のまっただ中にいてる人は、こういう事にも気づけないと思うので、あえて書きます。
まず、もし、自分が依存症と気付かないままにしておくと、「世の中全体との戦い」になります。
何故か?
もともと「できていない」ことを「できている」とごまかしているのだから大きな矛盾が生じるのだ。この矛盾は、考え方や行動におかしなところを出させてしまう。大なり小なりね。
そして、その「おかしさ」を身の回りの親しい人から注意されるのだが、その注意された点を、これまた直す気になれない。だから世間との全面戦争になっていくということなのだ。心がやすらぐ事自体がなくなっていく。
たとえば、最初はとても小さな事から始まる。ギャンブル依存症の人間が着るものに無頓着になったり、アルコール依存症の主婦が子供の食事に手抜きになったりするのが、いちばんわかりやすい例だろう。とにかく依存対象の事しか考えてないから、そのほかの事が軒並み標準以下になる。で、周りから、標準以下になっていると指摘されても、それを受け入れない。否認する。
子供依存の場合は、子供に関することはなんだかんだと考えたり言ったりするが、「自分のこと」をどうするかとか「自分が何をどう感じているのか」とか、あるいは「自分自身の成長は」とかがまったくおろそかになる。
結局社会人として「おかしい」存在になってしまうのだ。ありのままの自分を把握していないってことですね。これは相当にやばい。
でも、それでも、ありのままの現実を認めないので、そういう矛盾をごまかすために「妄想」を作り出すようになります。人にもよるし依存の対象にもよるし、人それぞれでしょうが、たとえば、注意してくれた人を「最近、あの人は怒りっぽくなったよな」とかレッテル張りして安心するとかですね。そういうところから始まります。自分の問題を省みない。
自分で自分を騙すわけです。
で、それはウソですから、より大きな矛盾を抱えこんでしまうことになります。ひとつウソをついたら、もっと大きなウソをつかないとダメになるのと同じことです。
で、この「矛盾している不安」を押し隠すために、より一層、依存症がひどくなります。アルコール依存症なら、よけいに酒を飲むようになるし、ギャンブル依存症なら「ギャンブルだけが楽しみなんだ、ほっといてくれ」とかになるし、子供依存だと「子供を大切にして何が悪い」ってなる。
全部ごまかしです。
で、より一層、依存がひどくなりまして、生活が「アルコールだけ」「ギャンブルだけ」「子供だけ」になります。
ファッションについて敏感になるとか、おいしい料理に敏感になるとか、そういうのがどんどん減っていく。「感じる」のが苦手になります。
「コントロールできていない」という事実がもたらす「痛み」から逃げているからですね。痛いと感じることを避けるようになるわけです。
痛みを感じないようにするということは、喜びも感じなくなるという事です。それは単に「感じる能力」そのものを下げているだけなんですね。感じる能力を高めるという事は、痛みも強烈に感じるという事なんですね。人生には喜びもあるけれど、悲しみや痛みもある。どれかをだけ選択して感じるようにして、他は感じないようにする、という訳にはいかないのです。
で、「嫌な感じ」が生まれる原因を直視して、痛みをしっかり味わい尽くして、「もう、こんな苦しい体験は味わいたくないぞ」と思って、その原因を取り除けば、「嫌な感じ」が減る、ということはありますが、「嫌な感じ」を避けている限りは、原因究明もできませんから、その「嫌な感じ」は絶対に減らない。そういう風に世の中はできているのです。
なので、「あまり感じないようにして生きていく」というのはもう、ずーっと、ジトーーーーっとした気持ち悪さとともに生きていくことにしかなりませんから、少なくとも私は嫌です。
問題は直視して、自分に悪いところがあるなら、出来る範囲で修正して、自分でコントロールできないなら、周りの人とともに、あるいは世の中全体と一体化して、なんとかやっていきます。
そりゃ「できてない自分」を認めるのは、ものすごく辛いですが、そんなもの最初だけです。克服して乗り越えたら「自信」がつきます。これこそが生きる糧であります。
痛みはしっかり味わって、痛みとともに過ごしていけば、そこから学べることもすごく多いのです。だからそれを避けようとしてはいけないのです。
だから僕は「感じる」のを避けようとしている人には、ガンガンにボリュームを上げて痛みを感じるようにするんですがね。
その方が幸せになれるんだから。
(いやまぁ、これは押しつけでしかないんだけどね。で、まだどうもボリュームのコントロールは下手くそではあるらしいのだけど。)
ほんと。だから本当に気付いて欲しいと思う。
依存症でない人間からみれば「おいおい、それはまずいぞ、コントロールできてないぞ」というのは自明の理なわけです。だって依存してないから、ものすごくよくわかる。
依存症者を「あんた依存症になってるよ」と判定できるのは、依存症にかかる前の人間か、依存症から脱した人間かのどちらかであって、依存症者同士では、絶対に気付くことはできないんですね。
だから、友達に聞いてもあんまり役に立たないとかあるから怖い。
アルコール依存症者はアルコール依存症者が好きです。だって「お前はアルコール依存症者だ。だってコントロールできてないから!」とは言わないですから。言うわけないもんな。
「この人は、アルコール依存だ!」と判定できるのは、アルコールに依存してない人だし、「ギャンブル依存だ!」と判定できるのはギャンブルしてない人だし、「子供依存だ!」と判定できるのは子供のいてない人でしょう。
依存症のまっただ中にいる人は、そこがまずわかっていない。
「飲まない奴に何がわかる」とか「馬の名前も知らないくせに何を言うか」とか「子供を育てたこともないのに何がわかるか」とか言う。そういう言い方をしてしまうこと自体がすでに「客観的な自己がどのようなものであるか」の受け入れ拒否であって、すでに「やめられない病」の始まりなのである、という事が、ちーーーーーーーーーーーともわかってない、ということなわけです。
ようは、「他者から見てどう見えるか」という事実を拒否してるわけです。まさに「否認」ですな。
あなたが自分で自分を「まとも」と思っていても、依存症でない人間から見たら、「完全に依存症だよそれは。」っていうのはあるわけでね。
そこは「事実」として認識するしかないわけです。
つまり「症状」が先に先行してるってこと。自分がコントロールするとかなんとか以前に「症状」が発症している。
しかも、他者が気付いて注意するということは、相当に進んでいるということなわけです。普通は心の中の問題は深く静かに潜行していて、周りには気付かないものですから。
でも、周りに気付いた人がいた、ってことは、その問題が表に出てきたってことでね。
それは進行しているからこそなわけ。
だから、誰かから何か注意を受けたら、即「そうなのか。やばいぞ」と思わないとダメなのだ。いつまでも「否認」をやってる場合ではない。
…ん、だけどね。
でも、そこに気付けないのが人間なんだよなぁ…。
というのが、いまの私の感想ですな。
うむー。
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