罪を憎んで、人を憎まず。
2006年2月23日コメント (1)ちょっと、あまりに幼い反論があったので、「親を許す」という事に関して、あまりに当たり前かつ常識の話を書きます。
まず。
法律を犯した者は裁かれますが、刑に服せば罪はなくなります。これはとても大切なことで、「人格」と「行為」の区別、ということなんですね。
それこそ、まさに、「罪を憎んで、人を憎まず」です。自分の「行為」を反省して、罪をつぐなったら、それは人格とは切り離して考えますよ、ってことで、この考え方がなかったら、犯罪者は一生牢獄から出てこれない。それこそ人格と行為の切り分けをしないというのは、人非人のすることだ、ということになるわけです。
この行為と人格の区別がないと、永遠に人は許されることはありません。罪をつぐなったのに、いつまでも「あの人はあんな罪を犯したのだよ」とかヒソヒソと言われ続けることになるのだから、たまったものではありません。それはひどい。
でも「親を許す」とかなんとか言う言い方は、まさにこの行為と人格の区別のついてない言い方なんですね。正直言って、ちょっと幼い。社会性のない言い方です。
「間違った行為」なら、それは絶対に許してはいけないのです。しかし、「間違った行為」は責められて当然ですが、「行為の変更」が人間にはできます。(というか、できると信じるということです。)つまり「反省」や「行為の修正」は「人格の肯定」があってはじめて可能だ、ってことですね。
簡単に言うなら、「人格は肯定する以外にない」ということです。性善説に立たないと、ここは成立しない。
だから「親を許す」などと人格と行為の区別のついてない発言すること自体が、すでに「人格ですら恨んでいる間は否定して良い」という考え方を含んでしまうのです。つまり「俺は親を恨んでるから人格も否定する。」という大前提が、この考え方の裏には潜んでいる、ということです。これは、ようするに「人格すら否定するほど私は親を恨んでいるのだ」ということです。
実にとってもよろしくないのです。この考え方は。人格を否定してしまったら「間違った行動の修正」ができませんから、問題は永遠に解決しません。だから、だめなのです。
許すも何も、「人格は否定してはいけない」なのですよ。もともと、許すもへったくれもないのです。すべての人間に人格はあって、それは人権として不可侵です。(ということになっている。)もともと「人が他の人の人格を許す」なんてことはできないってことです。すべての人格は肯定されます。(大前提としてね。)
ただし「行為」の方は違います。
「間違った行為」は許してはならないのです。
当然ですね。
「殺人を許します」なんてことになったら、一大事です。
大事なことは、「行為の修正」は可能だ、ということです。
行為の修正ができるのは、その人の「人格」です。だから「間違った行為」があった場合には、行為そのものはゆるされず、「それは間違っています。修正しなさい。」と要求しなければならないってことですね。
「間違い」は「許してはならない」、なぜなら、人は反省し、成長し、あやまちをやり直せるから、です。
人格による修正が可能なんだから、行為の間違いは許してはいけないんです。大前提として。
ここまでを常識でちゃんと考えれば、「親を許す」などと人格と行為の区別もつけないままに「許し」ということをアヤフヤに言ってしまうのは「間違った行為の正当化」につながる可能性が非常に高いので、充分に注意が必要でしょう。
少なくとも、親が子どもの虐待行為をしていて、その子どもであるアダルトチルドレンが、世代間連鎖を止める必要性すら考えもせずに「親を許す」と言った時には、これは明確に「虐待行為」の正当化にしかなりません。
ここはかなりきっぱりいいます。というのはアダルト・チルドレン本人は、自分が虐待行為をしているという自覚がないことが多いし、虐待とは何かが分ってないからこういう事を言うのだというのがはっきりしてるからです。
だから間違いははっきり間違いと指摘せねばならんということです。
アダルト・チルドレンである人間が「親を許す」と発言した場合、それはストレートに、「俺は親がやったのと同じように、自分の子どもも虐待します」と宣言している事なのです。
キッパリ・くっきりと、そう断言します。断言しないとわからんと思うから。
とくにアダルト・チルドレンは、「親をかばう」という無意識の自己欺瞞をやりますので、非常に典型的なアダルト・チルドレン的自己欺瞞だってことになるでしょう。
(このあたりは、「家庭内ストックホルムシンドローム」について書いた日記をごらんください。
http://diarynote.jp/d/12917/20051227.html)
復習しておきますと、「親を許す」と、具体的な行為を明示しないまま、全人格的な言い方で、親の行為の肯定をしたということは、明確に「親がやった虐待を肯定します」という意味になる、ということです。
「親の●●の行為によって、私の心はこのように傷ついたが、その過去の出来事には、もう縛られません」
くらいまで、明確化されていれば何も問題ないんですが、具体的行為や、自分の内面の感情等の検証もないままに「親を許す」と言ってるのは、ようするに「親がやった虐待を肯定します」という意味で、それは「いままさに私が実行している子どもの虐待行為を、私は肯定します。」という意味でしかないのです。
「俺は、あの親の子どもだ。だから、やってることが似てるのは当然だ。結局親になったら、こういう行動に出てしまうものなのだ。いまになって親の気持ちがわかる。だから私は親を許す。」
とまぁ、ありていに言ってしまえば、そういう意味です。
完全に、
依存症・アダルトチルドレンの
世代間連鎖、
そのものやんけーーーーーーー
あほか。
とにかく、ごく当たり前の常識の話をしますが、まずは、「間違った行為」を明確に「人格」と分離しなけりゃ、罪は償えないのです。罪を償う仕組みを理解してなくて、「許し」ができてるはずはないです。絶対に無理ですわね? 常識で考えたら分る。
だから、罪とか許しということを考える時には「行為」と「人格」の明快な区分がどうしても必要なんです。ここが分らないのは子どもです。
というか頭が混乱してるとしか言いようがない。
そういうことですな。
間違った事はすべて間違ったこととして否定する。間違った「行為」は間違っているとして裁く。だからこそ幸せは実現するのです。大前提です。
この行為と人格の区別がなくして、「行為を反省して、より良い人間になる」という成長というのはあり得ません。絶対に無理です。
行為と人格の区別もしないままに「許す」なんて軽く言ってしまうのは、要するに、「虐待しても仕方ない。それが人間なんだ」という言い訳しか産まないんですよ。
で、こういう仕組みで、かつて虐待された子どもが、大人になって自分の息子や娘を虐待してしまうんです。「親を許す」というあやふやな言い方は、ようするに「親と同じことしかできてないよ、俺は」という言い訳だ、ということです。
でもねぇ、そういう「失敗」もまた「行為」でしかない、つまり「行動だけなら修正できる」という考え方にさえなれれば、きちんと反省して、やり直すということができるんですね。それこそが、行為と人格の分離ということなわけです。
この「反省」して、「行為を改める」ということなくして、人間の共同生活や社会性などは成立するはずもないのです。
大前提です。
そして、こういう当たり前のことを、普通の家では父親や母親が子どもに幼い頃から教えます。
「そういう行動をしてはいけないよ。」と「行動」を否定します。決して「人格の否定」はしません。
これが「正しい」教育の仕方です。こうすれば人格が否定されずに、自尊心を傷つけずに子どもに「何が間違っているのか」を教えることが出来るのです。
健全な家庭が何代も続いているような場合には、こういうことは、「行動と人格の分離」というようなカタイ言葉ではなく、日々の行動の中に「常識」として組み込まれているはずなのです。
しかし、この人格と行動の区別がついていない人間は、人格と行為をごちゃまぜにして叱ります。「なんで親の言うことが聞けんのや! キー!!!」てなもんでしょう。こどもの人格を、その人格ごと、親に隷属させる。だから子どもが自尊心を損なってしまうのですね。
そして、この区別をつけずに叱るということの最悪のやり方が「説明もなく、プイと横を向く親の態度」です。
これは、一切人格と行為の区別が説明されていません。だから、その行為の「意味」は「私はお前を愛していない」という意味にしかなりません。つまり人格攻撃です。子どもは強烈に自尊心が傷つきます。「行為」をやり直すという前向きな修正ではなく、自分の存在の否定がなされたのと同じことになってしまうわけです。
だから「プイと横を向く」という親の態度は、はっきりと「児童虐待」なんです。
無視=ネグレクトが児童虐待なのだ、というのは、こういうことを言います。
正しい親の態度は、「私はお前の絶対的な味方だけれど、間違った行為をした時には、その間違いは指摘するよ。だって間違いは直さないといけないからね。そしてお前は、その間違いを修正できる素晴らしい子なんだから。お父さんはそう信じてるからね。だから、この間違いをやりなおしてみよう。」と言うということです。間違いは許さず、人格は肯定する。これですね。
こういう風に正しく教育してもらえた人は、実際には少ないのかもしれません。しかしそれでも世の中の三割から五割の間くらいは、こういう正しい態度で子どもを育てている人がいてると思います。
でも、アダルト・チルドレンには、この肝心の常識を知りません。そんなものと触れた事自体がないのです。
で、知らないものだから、子どものころの親と自分が似てきたことをして「親を許す」ととらえ、無視=ネグレクトを「そんな無視程度のことは、誰でもするよ。そういう物だよ」と言って、こういう「虐待」を「普通」と信じ込んでしまうのです。
何で信じ込んでしまうのかというと、子どもの頃から虐待され続けてきていて、これを虐待であるという認識すらできなくなっているからです。そういう本質的暴力に気づけないくらいに自尊心が弱っているんです。
でも、きちんと自尊心のある親なら、こんなことは決してしないのです。いや、仮に、ついうっかりして、そういう「無視」をしても、ちゃんと後から子どもに「無視して悪かった。お父さんも、ちょっと機嫌が悪かったんだ。許してくれよ。」とコミュニケートの断絶を修復します。
しかし、これもまた、アダルト・チルドレンは下手ですね。というか出来ない。なんでできないかというと、親にそういう形でのコミュニケーションをしてもらったことがないから、どうやってやればいいのかがわからない、ということになります。
私はこの数年で、ゆっくりゆっくりと自尊心を高めてきたので、(自尊心というものは、ゆっくりとしか高まりません。こういうものは実は体育会系の「練習」と同じで、繰り返しの実行でしか身に付かないものだからです。くりかえし自尊心を高める練習をしないと身に付かない。)やっと最近、こういう虐待に対して、冷静に説明ができるようになってきました。
しかし、前は、こういう虐待に対しては、「何言うとんねんボケ!」という極端な怒りという、過剰反応しかできませんでしたな。
やっと自尊心が高まってきたばかりの初期段階だったから、こういう「構造」みたいなこと、「間違い」という行為に対して冷静ではいられなかったんです。まず強烈な怒りが先に湧いて出てきました。
いやまぁ、怒って当然のことだから間違ってないんだけど、どうしても怒りの「ボリュームコントロール」ができなかったんですよね。
でかい音出して、それで驚いてしまった人には謝っておきます。まだ慣れてなかったんだ、許してくださいませ。
(ちゅうか、「怒りのボリュームコントロール」という概念も、この数週間で、やっと自分で思いついたコントロール方法なのですよ。いままではスイッチのオン・オフイメージしか持ててなかった。怒るかほめるか両極端。
で、自分の心の管理を考えていて「あ、そうや、アンプのボリュームのイメージを持てばいいんだ!」と、やっと最近自分で「発明」したのですよ。これは便利だ。私って天才?
まぁ、こういう具合に、ちょっとずつ「自尊心」を高める練習をするのよ。わかる? そして自己コントロールの方法を身につけていくの。アダルト・チルドレンなんだから、こういう学習の手間がかかるのはしょーがないんだ。もともと持ってないんだもの。)
ということで、やっと、ちょっと余裕が出てきたわけ。
とにかく、人格と行為は別物です。これの区別がついてないのは、学習不足、勉強不足、幼いというだけのことです。で、それは学習すれば身に付きます。単にそれだけのことでしょう。
「虐待」も「行為」でしかありません。だから「反省」して「過ちの修正」が可能です。
そうやって失敗を取り返していく過程で人間は成長していくことができて、過去の「いやな精神状態」から、おさらばしていくことができるのです。
ものすごく簡単で、シンプルな道です。
みんな、この道を歩いているし、こういう「失敗を反省して、行為を改め、より正しい行いをして、誰にも迷惑をかけず、自分も楽しみながら、みんなと幸せに生きていくことを心がける」ということができるのだし、みんなやってるんです。
ほんと、単純なことだよ。
僕はだから、父は愛しているし、「恨み」なんて、かけらもない。「行動の修正」ということができなかった幼い人だったなぁとは思うが、人格的な部分では、まったく腹は立たないわけです。全然、ちーとも、まったく腹は立たない。
でも、間違いは間違いですわな。知らなかったとは言え、「虐待」をしてしまった「行為」に関しては、明確に「間違い」ですし、それは許してはいけませんよ。
子どもが算数のプリントで「5+3=9」と書いていて、それを「許す」なんてのは、完全に間違った行為ですからな。
「おいおい、9じゃないよ。もう少し考えてごらん。」って言うのが愛情じゃん。でしょ?
当たり前の話です。
この「9じゃないよ」が間違いを許さない、という事であり、答えを教えずに「もう少し考えてごらん」と言うことが人格への信頼、つまりは愛情なわけですよ。
こんなこと、当たり前以前。わかってない方がおかしい。
なので、私は父親のことは深く愛してはいるけど、ずっと「それは間違ってるよ。ちゃんと考えてごらん。」と言い続けたし、いま身の回りにいるアダルト・チルドレンにも、同じ事を言い続ける。
でも、気付かないのよなぁ。気付いてくれない。
これが実に寂しい。
寂しいから、こうして「5+3は9じゃなくて8じゃないか」と答えを言うしかなくなってる。残念だなぁって思う。
まぁ、しゃーないか。次はちゃんと考えや。
って思うだけなんだけど。
まぁもちろん、「人格と切り離せない行為」っていうのもありまして、それはたとえば職人の名人芸とかなんですが、このあたりの話までしていくと、話は混乱していくだけなので、大枠の「常識」の話だけを整理しとく。
とにかく、「罪」とか「間違い」とか「失敗」というものは、「行為」として「人格」とは切り離しておかないと、この世自体が回っていかないって。
大前提じゃん、そんなこと。
だいたい、この世で起こる出来事は、すべて、全部、まるまる、どれもこれも、何から何まで、一切合切、一から十まで、自分の責任です。
恨みがどうたら、許しがどうたらという発想自体、「自分の責任を自分で背負ってない人間がゴタクサ抜かす言い訳」そのものなわけです。行為と人格の分別もついてない幼い言いぐさだと思うなぁ、僕は。
自分の人生で起こる出来事は、全部、自分の行為・選択による結果なのだ。人生はまるまる全部「自己責任」なのだ、という覚悟がキチンとできていれば、「親を恨む」などという、非生産的で、何の解決も産まない発想自体が出てこない。
(あえてスピリチュアルな考え方も提出しておくけど、「生きがいの創造」の飯田史彦さんによれば、両親ですら、自分が生まれる前に「この人の子どもとして生まれよう」と決めて出てくるのだそうです。たとえば親としてどうしようもない人の子どもとして生まれてきたというのは、今生の世の中において、そういうダメ親の元でも、しっかりとより良く生きるぞ!と修行を積むために生まれてきたのだってことなわけ。これが、ほんとかどうか知らないけれど、そういう考え方は、私は大好きです。私の父親はどうしようもない博打打ちでしたが、それは、私や私の家族がそういうやっかいさを乗り越えるためにやっかいな役割を担って生まれてきてくれたということだと考えるわけです。だからこの世に生まれてきて、こういう心の成長をする機会を与えられて、成長できない人間はクズ。なんのために生まれてきたのやらってことになる。私はこの飯田先生の考え方はとても好きです。で、この考え方を取っている限り、他者をうらむという事自体が問題です。)
そんな「許し」みたいな人格と行為のごちゃまぜ論議をしていては、「ああ、そうか!」という気づきの気持ちよさも、「お、こうすればうまくいくじゃないか!」と解決する自己実現の楽しさも味わえない。
そんなつまらんことをしてどうすんのよって思う。おもしろみのない人生だよなぁ。そんなのは嫌だね、僕は。
そんなことより、自分の責任として、「間違った行為は繰り返さない」ことの方が何億倍も重要だよ。
自分の責任を果たせよ、自分の責任を。
自らの「行為」を管理・コントロールすることは、自分にしかできない自分の責任でしょうが。
(ま、ちなみに、この自己管理・コントロールが「どうしてもできない」と感じてしまっていることが「依存症」なんだよね。やろうと思ってるのに、できない! っていう矛盾にとりつかれている無力感ね。これが依存症。ここからの抜け出し方とかその他についてはまた書きます。)
ようするに。たとえばアダルト・チルドレンの世代間連鎖はぜひとも断ち切るべきだと私は思っているので、自分の父親がやっていた依存症そのものの、首尾一貫していない育て方という「行為」は完全に否定して、別のより良い「モデル」を探します。
これは別に父親を恨んでいるからではなくて、自分の責任として、間違った行為は選択しないという、ただそれだけのこと。
この時点で父親がどうとか関係ないもん。問題は自分がどう責任を果たすか。それだけ。アダルトチルドレンの世代間連鎖は起こさないように注意しよう、ってだけ。
ともかく。
罪を憎んで、人を憎まず。っていうのは、そういう「行為と人格の分離」のことを言ってる、良いことわざですな。
ことわざにもなってる程度のことがわかってないってのは、相当にマズイと私は思いますです。
まず。
法律を犯した者は裁かれますが、刑に服せば罪はなくなります。これはとても大切なことで、「人格」と「行為」の区別、ということなんですね。
それこそ、まさに、「罪を憎んで、人を憎まず」です。自分の「行為」を反省して、罪をつぐなったら、それは人格とは切り離して考えますよ、ってことで、この考え方がなかったら、犯罪者は一生牢獄から出てこれない。それこそ人格と行為の切り分けをしないというのは、人非人のすることだ、ということになるわけです。
この行為と人格の区別がないと、永遠に人は許されることはありません。罪をつぐなったのに、いつまでも「あの人はあんな罪を犯したのだよ」とかヒソヒソと言われ続けることになるのだから、たまったものではありません。それはひどい。
でも「親を許す」とかなんとか言う言い方は、まさにこの行為と人格の区別のついてない言い方なんですね。正直言って、ちょっと幼い。社会性のない言い方です。
「間違った行為」なら、それは絶対に許してはいけないのです。しかし、「間違った行為」は責められて当然ですが、「行為の変更」が人間にはできます。(というか、できると信じるということです。)つまり「反省」や「行為の修正」は「人格の肯定」があってはじめて可能だ、ってことですね。
簡単に言うなら、「人格は肯定する以外にない」ということです。性善説に立たないと、ここは成立しない。
だから「親を許す」などと人格と行為の区別のついてない発言すること自体が、すでに「人格ですら恨んでいる間は否定して良い」という考え方を含んでしまうのです。つまり「俺は親を恨んでるから人格も否定する。」という大前提が、この考え方の裏には潜んでいる、ということです。これは、ようするに「人格すら否定するほど私は親を恨んでいるのだ」ということです。
実にとってもよろしくないのです。この考え方は。人格を否定してしまったら「間違った行動の修正」ができませんから、問題は永遠に解決しません。だから、だめなのです。
許すも何も、「人格は否定してはいけない」なのですよ。もともと、許すもへったくれもないのです。すべての人間に人格はあって、それは人権として不可侵です。(ということになっている。)もともと「人が他の人の人格を許す」なんてことはできないってことです。すべての人格は肯定されます。(大前提としてね。)
ただし「行為」の方は違います。
「間違った行為」は許してはならないのです。
当然ですね。
「殺人を許します」なんてことになったら、一大事です。
大事なことは、「行為の修正」は可能だ、ということです。
行為の修正ができるのは、その人の「人格」です。だから「間違った行為」があった場合には、行為そのものはゆるされず、「それは間違っています。修正しなさい。」と要求しなければならないってことですね。
「間違い」は「許してはならない」、なぜなら、人は反省し、成長し、あやまちをやり直せるから、です。
人格による修正が可能なんだから、行為の間違いは許してはいけないんです。大前提として。
ここまでを常識でちゃんと考えれば、「親を許す」などと人格と行為の区別もつけないままに「許し」ということをアヤフヤに言ってしまうのは「間違った行為の正当化」につながる可能性が非常に高いので、充分に注意が必要でしょう。
少なくとも、親が子どもの虐待行為をしていて、その子どもであるアダルトチルドレンが、世代間連鎖を止める必要性すら考えもせずに「親を許す」と言った時には、これは明確に「虐待行為」の正当化にしかなりません。
ここはかなりきっぱりいいます。というのはアダルト・チルドレン本人は、自分が虐待行為をしているという自覚がないことが多いし、虐待とは何かが分ってないからこういう事を言うのだというのがはっきりしてるからです。
だから間違いははっきり間違いと指摘せねばならんということです。
アダルト・チルドレンである人間が「親を許す」と発言した場合、それはストレートに、「俺は親がやったのと同じように、自分の子どもも虐待します」と宣言している事なのです。
キッパリ・くっきりと、そう断言します。断言しないとわからんと思うから。
とくにアダルト・チルドレンは、「親をかばう」という無意識の自己欺瞞をやりますので、非常に典型的なアダルト・チルドレン的自己欺瞞だってことになるでしょう。
(このあたりは、「家庭内ストックホルムシンドローム」について書いた日記をごらんください。
http://diarynote.jp/d/12917/20051227.html)
復習しておきますと、「親を許す」と、具体的な行為を明示しないまま、全人格的な言い方で、親の行為の肯定をしたということは、明確に「親がやった虐待を肯定します」という意味になる、ということです。
「親の●●の行為によって、私の心はこのように傷ついたが、その過去の出来事には、もう縛られません」
くらいまで、明確化されていれば何も問題ないんですが、具体的行為や、自分の内面の感情等の検証もないままに「親を許す」と言ってるのは、ようするに「親がやった虐待を肯定します」という意味で、それは「いままさに私が実行している子どもの虐待行為を、私は肯定します。」という意味でしかないのです。
「俺は、あの親の子どもだ。だから、やってることが似てるのは当然だ。結局親になったら、こういう行動に出てしまうものなのだ。いまになって親の気持ちがわかる。だから私は親を許す。」
とまぁ、ありていに言ってしまえば、そういう意味です。
完全に、
依存症・アダルトチルドレンの
世代間連鎖、
そのものやんけーーーーーーー
あほか。
とにかく、ごく当たり前の常識の話をしますが、まずは、「間違った行為」を明確に「人格」と分離しなけりゃ、罪は償えないのです。罪を償う仕組みを理解してなくて、「許し」ができてるはずはないです。絶対に無理ですわね? 常識で考えたら分る。
だから、罪とか許しということを考える時には「行為」と「人格」の明快な区分がどうしても必要なんです。ここが分らないのは子どもです。
というか頭が混乱してるとしか言いようがない。
そういうことですな。
間違った事はすべて間違ったこととして否定する。間違った「行為」は間違っているとして裁く。だからこそ幸せは実現するのです。大前提です。
この行為と人格の区別がなくして、「行為を反省して、より良い人間になる」という成長というのはあり得ません。絶対に無理です。
行為と人格の区別もしないままに「許す」なんて軽く言ってしまうのは、要するに、「虐待しても仕方ない。それが人間なんだ」という言い訳しか産まないんですよ。
で、こういう仕組みで、かつて虐待された子どもが、大人になって自分の息子や娘を虐待してしまうんです。「親を許す」というあやふやな言い方は、ようするに「親と同じことしかできてないよ、俺は」という言い訳だ、ということです。
でもねぇ、そういう「失敗」もまた「行為」でしかない、つまり「行動だけなら修正できる」という考え方にさえなれれば、きちんと反省して、やり直すということができるんですね。それこそが、行為と人格の分離ということなわけです。
この「反省」して、「行為を改める」ということなくして、人間の共同生活や社会性などは成立するはずもないのです。
大前提です。
そして、こういう当たり前のことを、普通の家では父親や母親が子どもに幼い頃から教えます。
「そういう行動をしてはいけないよ。」と「行動」を否定します。決して「人格の否定」はしません。
これが「正しい」教育の仕方です。こうすれば人格が否定されずに、自尊心を傷つけずに子どもに「何が間違っているのか」を教えることが出来るのです。
健全な家庭が何代も続いているような場合には、こういうことは、「行動と人格の分離」というようなカタイ言葉ではなく、日々の行動の中に「常識」として組み込まれているはずなのです。
しかし、この人格と行動の区別がついていない人間は、人格と行為をごちゃまぜにして叱ります。「なんで親の言うことが聞けんのや! キー!!!」てなもんでしょう。こどもの人格を、その人格ごと、親に隷属させる。だから子どもが自尊心を損なってしまうのですね。
そして、この区別をつけずに叱るということの最悪のやり方が「説明もなく、プイと横を向く親の態度」です。
これは、一切人格と行為の区別が説明されていません。だから、その行為の「意味」は「私はお前を愛していない」という意味にしかなりません。つまり人格攻撃です。子どもは強烈に自尊心が傷つきます。「行為」をやり直すという前向きな修正ではなく、自分の存在の否定がなされたのと同じことになってしまうわけです。
だから「プイと横を向く」という親の態度は、はっきりと「児童虐待」なんです。
無視=ネグレクトが児童虐待なのだ、というのは、こういうことを言います。
正しい親の態度は、「私はお前の絶対的な味方だけれど、間違った行為をした時には、その間違いは指摘するよ。だって間違いは直さないといけないからね。そしてお前は、その間違いを修正できる素晴らしい子なんだから。お父さんはそう信じてるからね。だから、この間違いをやりなおしてみよう。」と言うということです。間違いは許さず、人格は肯定する。これですね。
こういう風に正しく教育してもらえた人は、実際には少ないのかもしれません。しかしそれでも世の中の三割から五割の間くらいは、こういう正しい態度で子どもを育てている人がいてると思います。
でも、アダルト・チルドレンには、この肝心の常識を知りません。そんなものと触れた事自体がないのです。
で、知らないものだから、子どものころの親と自分が似てきたことをして「親を許す」ととらえ、無視=ネグレクトを「そんな無視程度のことは、誰でもするよ。そういう物だよ」と言って、こういう「虐待」を「普通」と信じ込んでしまうのです。
何で信じ込んでしまうのかというと、子どもの頃から虐待され続けてきていて、これを虐待であるという認識すらできなくなっているからです。そういう本質的暴力に気づけないくらいに自尊心が弱っているんです。
でも、きちんと自尊心のある親なら、こんなことは決してしないのです。いや、仮に、ついうっかりして、そういう「無視」をしても、ちゃんと後から子どもに「無視して悪かった。お父さんも、ちょっと機嫌が悪かったんだ。許してくれよ。」とコミュニケートの断絶を修復します。
しかし、これもまた、アダルト・チルドレンは下手ですね。というか出来ない。なんでできないかというと、親にそういう形でのコミュニケーションをしてもらったことがないから、どうやってやればいいのかがわからない、ということになります。
私はこの数年で、ゆっくりゆっくりと自尊心を高めてきたので、(自尊心というものは、ゆっくりとしか高まりません。こういうものは実は体育会系の「練習」と同じで、繰り返しの実行でしか身に付かないものだからです。くりかえし自尊心を高める練習をしないと身に付かない。)やっと最近、こういう虐待に対して、冷静に説明ができるようになってきました。
しかし、前は、こういう虐待に対しては、「何言うとんねんボケ!」という極端な怒りという、過剰反応しかできませんでしたな。
やっと自尊心が高まってきたばかりの初期段階だったから、こういう「構造」みたいなこと、「間違い」という行為に対して冷静ではいられなかったんです。まず強烈な怒りが先に湧いて出てきました。
いやまぁ、怒って当然のことだから間違ってないんだけど、どうしても怒りの「ボリュームコントロール」ができなかったんですよね。
でかい音出して、それで驚いてしまった人には謝っておきます。まだ慣れてなかったんだ、許してくださいませ。
(ちゅうか、「怒りのボリュームコントロール」という概念も、この数週間で、やっと自分で思いついたコントロール方法なのですよ。いままではスイッチのオン・オフイメージしか持ててなかった。怒るかほめるか両極端。
で、自分の心の管理を考えていて「あ、そうや、アンプのボリュームのイメージを持てばいいんだ!」と、やっと最近自分で「発明」したのですよ。これは便利だ。私って天才?
まぁ、こういう具合に、ちょっとずつ「自尊心」を高める練習をするのよ。わかる? そして自己コントロールの方法を身につけていくの。アダルト・チルドレンなんだから、こういう学習の手間がかかるのはしょーがないんだ。もともと持ってないんだもの。)
ということで、やっと、ちょっと余裕が出てきたわけ。
とにかく、人格と行為は別物です。これの区別がついてないのは、学習不足、勉強不足、幼いというだけのことです。で、それは学習すれば身に付きます。単にそれだけのことでしょう。
「虐待」も「行為」でしかありません。だから「反省」して「過ちの修正」が可能です。
そうやって失敗を取り返していく過程で人間は成長していくことができて、過去の「いやな精神状態」から、おさらばしていくことができるのです。
ものすごく簡単で、シンプルな道です。
みんな、この道を歩いているし、こういう「失敗を反省して、行為を改め、より正しい行いをして、誰にも迷惑をかけず、自分も楽しみながら、みんなと幸せに生きていくことを心がける」ということができるのだし、みんなやってるんです。
ほんと、単純なことだよ。
僕はだから、父は愛しているし、「恨み」なんて、かけらもない。「行動の修正」ということができなかった幼い人だったなぁとは思うが、人格的な部分では、まったく腹は立たないわけです。全然、ちーとも、まったく腹は立たない。
でも、間違いは間違いですわな。知らなかったとは言え、「虐待」をしてしまった「行為」に関しては、明確に「間違い」ですし、それは許してはいけませんよ。
子どもが算数のプリントで「5+3=9」と書いていて、それを「許す」なんてのは、完全に間違った行為ですからな。
「おいおい、9じゃないよ。もう少し考えてごらん。」って言うのが愛情じゃん。でしょ?
当たり前の話です。
この「9じゃないよ」が間違いを許さない、という事であり、答えを教えずに「もう少し考えてごらん」と言うことが人格への信頼、つまりは愛情なわけですよ。
こんなこと、当たり前以前。わかってない方がおかしい。
なので、私は父親のことは深く愛してはいるけど、ずっと「それは間違ってるよ。ちゃんと考えてごらん。」と言い続けたし、いま身の回りにいるアダルト・チルドレンにも、同じ事を言い続ける。
でも、気付かないのよなぁ。気付いてくれない。
これが実に寂しい。
寂しいから、こうして「5+3は9じゃなくて8じゃないか」と答えを言うしかなくなってる。残念だなぁって思う。
まぁ、しゃーないか。次はちゃんと考えや。
って思うだけなんだけど。
まぁもちろん、「人格と切り離せない行為」っていうのもありまして、それはたとえば職人の名人芸とかなんですが、このあたりの話までしていくと、話は混乱していくだけなので、大枠の「常識」の話だけを整理しとく。
とにかく、「罪」とか「間違い」とか「失敗」というものは、「行為」として「人格」とは切り離しておかないと、この世自体が回っていかないって。
大前提じゃん、そんなこと。
だいたい、この世で起こる出来事は、すべて、全部、まるまる、どれもこれも、何から何まで、一切合切、一から十まで、自分の責任です。
恨みがどうたら、許しがどうたらという発想自体、「自分の責任を自分で背負ってない人間がゴタクサ抜かす言い訳」そのものなわけです。行為と人格の分別もついてない幼い言いぐさだと思うなぁ、僕は。
自分の人生で起こる出来事は、全部、自分の行為・選択による結果なのだ。人生はまるまる全部「自己責任」なのだ、という覚悟がキチンとできていれば、「親を恨む」などという、非生産的で、何の解決も産まない発想自体が出てこない。
(あえてスピリチュアルな考え方も提出しておくけど、「生きがいの創造」の飯田史彦さんによれば、両親ですら、自分が生まれる前に「この人の子どもとして生まれよう」と決めて出てくるのだそうです。たとえば親としてどうしようもない人の子どもとして生まれてきたというのは、今生の世の中において、そういうダメ親の元でも、しっかりとより良く生きるぞ!と修行を積むために生まれてきたのだってことなわけ。これが、ほんとかどうか知らないけれど、そういう考え方は、私は大好きです。私の父親はどうしようもない博打打ちでしたが、それは、私や私の家族がそういうやっかいさを乗り越えるためにやっかいな役割を担って生まれてきてくれたということだと考えるわけです。だからこの世に生まれてきて、こういう心の成長をする機会を与えられて、成長できない人間はクズ。なんのために生まれてきたのやらってことになる。私はこの飯田先生の考え方はとても好きです。で、この考え方を取っている限り、他者をうらむという事自体が問題です。)
そんな「許し」みたいな人格と行為のごちゃまぜ論議をしていては、「ああ、そうか!」という気づきの気持ちよさも、「お、こうすればうまくいくじゃないか!」と解決する自己実現の楽しさも味わえない。
そんなつまらんことをしてどうすんのよって思う。おもしろみのない人生だよなぁ。そんなのは嫌だね、僕は。
そんなことより、自分の責任として、「間違った行為は繰り返さない」ことの方が何億倍も重要だよ。
自分の責任を果たせよ、自分の責任を。
自らの「行為」を管理・コントロールすることは、自分にしかできない自分の責任でしょうが。
(ま、ちなみに、この自己管理・コントロールが「どうしてもできない」と感じてしまっていることが「依存症」なんだよね。やろうと思ってるのに、できない! っていう矛盾にとりつかれている無力感ね。これが依存症。ここからの抜け出し方とかその他についてはまた書きます。)
ようするに。たとえばアダルト・チルドレンの世代間連鎖はぜひとも断ち切るべきだと私は思っているので、自分の父親がやっていた依存症そのものの、首尾一貫していない育て方という「行為」は完全に否定して、別のより良い「モデル」を探します。
これは別に父親を恨んでいるからではなくて、自分の責任として、間違った行為は選択しないという、ただそれだけのこと。
この時点で父親がどうとか関係ないもん。問題は自分がどう責任を果たすか。それだけ。アダルトチルドレンの世代間連鎖は起こさないように注意しよう、ってだけ。
ともかく。
罪を憎んで、人を憎まず。っていうのは、そういう「行為と人格の分離」のことを言ってる、良いことわざですな。
ことわざにもなってる程度のことがわかってないってのは、相当にマズイと私は思いますです。
コメント
「許すと宣言しないとダメなくらい恨んでるわけか。そら苦しかろう。」
ってことですからなぁ。
恨んでたら疲れるから、やめたほうがいいと思うけどなぁ。
まぁ、私の親の場合は、許せないような「行為」は、いくつもしてましたからね。そういうのは「情けないぜ、親父」とか「恥ずかしいやんけ、もう!」とかは思うけど、「恨み」までは行かないのよなぁ。
なので、「許す」という言葉が出ること自体が意味わからんって感じなのが正直なところ。
「結局、間違いを正せないまま死んでしまったんだなぁ、可哀想に」って感じでしょうか。
「許す」って言葉自体、「はぁ?」って感じで実感ないよなぁ。一時期いろいろ腹を立ててた時期はあったけど、それはもう終わった。
問題は、自分の発想や考え方に「不健全」なものがないかどうか、なわけです。不健全な発想を受けついだままだと、それが周りにも悪影響を及ぼすし、(自分はギャンブル依存症にならなくても、子供がなるとか、そういう可能性はものすごく大きいのだ。これは統計的事実。)そういう影響を与えるか与えないかは「自分の責任」なわけですよ。
許すだのなんだの、そんな過去の事を蒸し返しても意味なんかまったくない。そうではなくて、自分の配偶者や子供を不健全な精神状態にしないようにするという事こそが大事で、それを予防するのが自分の責任ってことです。
まず責任を果たさないとね。