気づきとコントロール。
2006年2月22日このあいだからアダルト・チルドレンのことをいろいろ書いてますが、それはやっぱり、この「親子関係のもつれ」をまず念頭に置いたほうが、さまざまな「気づき」を得やすいのだ、というのがあります。
「気づき」
これが大事なんです。
まず最初に気づくことなんです。
問題を抱えた当人が、まず自分が問題を抱えているのだと気づかないと何事も、一切、まったく、全然、何も動かない。
心の問題は、「気づき」なしには一切の進展が見られないと思うのです。当人が気付くかどうか。そこがものすごく重要。
で、「問題」は、小さい内に解決しておいた方が簡単なんです。放置しておくとどんどん大きくなってしまう。
大きくなる前に気付くこと。
これが大事だと思う。
で、恐ろしいのは、「親子関係のもつれ」は、「気付かないという病気」なんです。
親が子どもに虐待的行為をしていても、親も子どもも気付かない。ここがものすごく怖い。
両方そろって自分を騙すわけです。
親は「子どものためだ」という言い訳をし、子どもは「これが親の愛情なんだ」と自分をだます。
とくに親がアダルト・チルドレンだと、物質的な依存にはならないと思うんですね。その代わり共依存になってしまう。つまり子どもに依存してしまうんですね。
「子どもがいなけりゃ、私になんて存在価値なんてないですよ。」とかいう考え方そのものが、すでに児童虐待なんですね。最近、よくわかってきたけど。
子どもは長い人生を生きて行かねばなりませんから、自尊心を持った生き方を学ぶ必要があるわけです。では、その自尊心の持ち方というものを、どうやって学ぶかというと、モデル、つまりお手本の真似をして学ぶわけです。
で、一番良いのは、親がそのモデルになることなわけです。であるのに、その肝心の親が「私に価値なんてない」と思っていたら、子どもは学習機会を失ってしまうわけですね。
つまり学習機会を奪うという虐待をしているわけです。
アダルト・チルドレンは、まず、ここがわからない。
自分の親が自尊心を持ってなかったからですね。
つまり、自尊心のない親の元で育ったアダルト・チルドレンは、何も努力しないままだと、子どもに自尊心を与えることができないんです。
だいたい、アダルト・チルドレンだったとすると「自尊心とは何か」という事自体を理解してません。
大雑把に言って、自尊心というのは、自分を大切にする態度だと言って良いわけですが、それは常に日常から持っておくべき態度です。
で、単純に言ってしまうと、
「私はとっても素晴らしい! 私は私が大好きだ! 私には無限の能力がある!」と思うことこそが自尊心なので、単純な話、毎日こういう言葉を自分で自分に向かって唱えているだけでも、ものすごく大きな効果があるんです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
です。
さぁ、唱えましょう。
僕が最近思いついたアイディアでは、これを歌にして歌うというのも効果が高いと思う。音楽は無意識領域に残りますからな。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れませんが、まず、これだけでもやらないより、何千倍も効果があると言うべきでしょう。
とにかく、親の側が自尊心をなくしているというのが問題なのです。
前に書いたかも知れませんが、飛行機の酸素マスクの注意書きこそが、親子関係における基本的概念を表していると思う。
「子どもをお持ちの方は、まず自分に酸素マスクを」
ってことなんです。
飛行機事故に遭遇したとき、子どもと一緒に乗った人は、つい子どもに先に酸素マスクを手渡してしまう。それではダメですよ。って注意書きなんですね。
子どもには大人のような判断力はありません。まず親がちゃんと空気を吸って、まともな判断力を取り戻し、それから子どもに酸素マスクをつけさせるのです。一つしか酸素マスクがないのなら、まず親が先に酸素マスクをします。
これが緊急時に真っ先に考えなければならないことです。
でも、これを「まず子どもに」と考えてしまう親が多い。
「それではだめですよ」とリスク管理のプロなら言う、ということです。
まず、親がしっかりしなくちゃいけない。それが先。
これは日常のさまざまな判断でも同じです。まず、親が先。大人が優先です。そしてちゃんと余裕を持てる大人が、「余力」で子どもの世話をするのです。
ところが、こういう判断が正しいのだ、という「実感」を、アダルト・チルドレンは持てない。
なんでかというと、親に自尊心がなかったから。ようするに、「正しい親の姿」というものを見たことがないからですね。
知らないものはしょうがないんで、これは学習するしかないわけです。実感なんか持てないけど、それはやるしかない。
でも実感わかないから、つい「親と子どもが対等で、あなたと私の関係でいることが大事なんだ」とか思ってしまう。
いや、子どもと大人の区別をつけないってことそのものがストレートに虐待なんですよ。ほんと。マジに。
あるいは、自分の親がそういう自尊心を持っていない親だったことを指して「親を許す」とか言う。
いやいや、「自尊心がないこと」を許してたらアカンのよ。違うってそれは。「ない」ことが問題なのだから、身につけないとダメなんだ。そっちが優先だって。親を許してる場合じゃないよ。
自尊心のなかった親を「許す」ということは、ストレートに自分の自尊心のなさを肯定することにしかならないわけです。それじゃ問題はいっこうに解決しないわけで。そうやってACは世代間連鎖してしまうのです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
と思うこと、唱えること。
「子どもより自分優先。まず自分を育てること。」
この二つが必要であるという事を、まずアダルト・チルドレンは気付かないとダメです。
これに気付かないと、生活そのもののコントロールができません。
これに気付かないとどうなるのかというと、子どもと共依存関係になってしまいます。「子どもがいないと自分の存在価値がない」という感覚になってしまう。
で、この感覚こそ、まさに児童虐待そのものなんです。親が自分の価値を感じないということは、子どももまた自分の価値を感じないという事ですから、子どもの自尊心を傷つけることになります。それがストレートに虐待ということです。
自尊心の低かった親の事を「許す」などと言っているのが、まさに「子どもとしての自己欺瞞」なんですね。
現実を見よ。
アダルト・チルドレンの親はたいていアルコール依存症であったり、ギャンブル依存症であったりして、本来、親として持っておくべきだった「お手本としての親の態度」を取り得ていないのです。それがまごうかたなき現実なのであって、まずはそういう現実認識をすることが自己欺瞞より優先するのです。
「私はお手本を見ることなく大人になってしまった。」
この認識が、まず必要なんです。
それが、まごうかたなき現実です。
この認識がないままであることが、一番問題なんですね。
「お手本を知らずに大人になった」
その認識がないから「親と子が対等なのが良い」とか「親を許すこともできないのか」とかの、ピントのぼけた話になってしまう。
まず、現状認識を正しくすることです。アダルト・チルドレンに必要なのは、まずそれでしょうね。
もし、自分が自分に自信も持てないままに親になってしまった人がいたら、まず自分の心の中を総ざらえして、上記のような間違いをやってないかどうか確認してください。
で、もし「親と子が対等」とか「自尊心のない親を許す」とかの発想がどうしても出てしまうとしたら、その感覚こそが「子どもの頃の生き残り戦略として身につけてしまった誤った考え方」なんだと気付いていただきたい。
でないと自尊心の無さが子どもに遺伝してしまいます。
そして、とにかく、今日、いますぐでもいいですから「私は私が大好きだ。私はとっても素晴らしい。無限の力を持っている。」と唱えてください。一日に100回くらい唱えてもかまいません。
多ければ多いほどいい。
そうすることがとても大事です。
愛とは受け取るものではなくて与えるものです。
「子どもから愛をもらった」とか言ってる親がいますが、それは搾取です。まず与えることをしましょう。
そのためには与えるべき愛を自分で生み出す必要があります。
その「愛」は、まず「自分を愛する」という方法論です。
まず自分を愛する愛し方を自分で実践しましょう。そうして生まれた自信や自尊心をこそ大切にします。
親に自尊心ある態度が取れれば、子どもはそれを見て真似します。これが「愛を与える」ということです。他のやり方はありません。
これをせずに「子どもから愛をもらった」とかいうのは、子どもから搾取してるだけです。泥棒です。盗んだものは返しましょう。
愛は与えるもので、与えるためには生み出さねばならないのです。そして生み出すにはまず自分を愛することなのです。
自分を気持ちよくすることをまずする。そして、その気持ちよさをこそ、子どもにも体験させる、ということです。
というか、親が気持ちよく生活してる、という事自体が、子どもの「お手本」になるんです。ここを忘れて「子ども優先」とかやったら、親が不愉快なんだから子も不愉快です。
まず自分を気持ちよく、快適に、そして楽しくすることです。こどもは二の次、三の次でよろしい。
うーん。
なんか書こうとしてたことと全然違うこと書いてるなぁ。
依存症は「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」という話を書きたかったのだけれど、先にコントロールの仕方を書いてしまった。
いやまぁ、この方が健全だからいいや。
人間ね、気持ちいいことをするなら続くってことですよ。
そのためには子どものことを忘れて「自分」に戻る。
これが基本。自分を自分で楽しくするってことです。
んー、「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」っていう気づきもすごい大事で、このことも体験談を含めて書きたかったのだけれど、またいずれ。
「気づき」
これが大事なんです。
まず最初に気づくことなんです。
問題を抱えた当人が、まず自分が問題を抱えているのだと気づかないと何事も、一切、まったく、全然、何も動かない。
心の問題は、「気づき」なしには一切の進展が見られないと思うのです。当人が気付くかどうか。そこがものすごく重要。
で、「問題」は、小さい内に解決しておいた方が簡単なんです。放置しておくとどんどん大きくなってしまう。
大きくなる前に気付くこと。
これが大事だと思う。
で、恐ろしいのは、「親子関係のもつれ」は、「気付かないという病気」なんです。
親が子どもに虐待的行為をしていても、親も子どもも気付かない。ここがものすごく怖い。
両方そろって自分を騙すわけです。
親は「子どものためだ」という言い訳をし、子どもは「これが親の愛情なんだ」と自分をだます。
とくに親がアダルト・チルドレンだと、物質的な依存にはならないと思うんですね。その代わり共依存になってしまう。つまり子どもに依存してしまうんですね。
「子どもがいなけりゃ、私になんて存在価値なんてないですよ。」とかいう考え方そのものが、すでに児童虐待なんですね。最近、よくわかってきたけど。
子どもは長い人生を生きて行かねばなりませんから、自尊心を持った生き方を学ぶ必要があるわけです。では、その自尊心の持ち方というものを、どうやって学ぶかというと、モデル、つまりお手本の真似をして学ぶわけです。
で、一番良いのは、親がそのモデルになることなわけです。であるのに、その肝心の親が「私に価値なんてない」と思っていたら、子どもは学習機会を失ってしまうわけですね。
つまり学習機会を奪うという虐待をしているわけです。
アダルト・チルドレンは、まず、ここがわからない。
自分の親が自尊心を持ってなかったからですね。
つまり、自尊心のない親の元で育ったアダルト・チルドレンは、何も努力しないままだと、子どもに自尊心を与えることができないんです。
だいたい、アダルト・チルドレンだったとすると「自尊心とは何か」という事自体を理解してません。
大雑把に言って、自尊心というのは、自分を大切にする態度だと言って良いわけですが、それは常に日常から持っておくべき態度です。
で、単純に言ってしまうと、
「私はとっても素晴らしい! 私は私が大好きだ! 私には無限の能力がある!」と思うことこそが自尊心なので、単純な話、毎日こういう言葉を自分で自分に向かって唱えているだけでも、ものすごく大きな効果があるんです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
です。
さぁ、唱えましょう。
僕が最近思いついたアイディアでは、これを歌にして歌うというのも効果が高いと思う。音楽は無意識領域に残りますからな。
馬鹿馬鹿しいと思うかも知れませんが、まず、これだけでもやらないより、何千倍も効果があると言うべきでしょう。
とにかく、親の側が自尊心をなくしているというのが問題なのです。
前に書いたかも知れませんが、飛行機の酸素マスクの注意書きこそが、親子関係における基本的概念を表していると思う。
「子どもをお持ちの方は、まず自分に酸素マスクを」
ってことなんです。
飛行機事故に遭遇したとき、子どもと一緒に乗った人は、つい子どもに先に酸素マスクを手渡してしまう。それではダメですよ。って注意書きなんですね。
子どもには大人のような判断力はありません。まず親がちゃんと空気を吸って、まともな判断力を取り戻し、それから子どもに酸素マスクをつけさせるのです。一つしか酸素マスクがないのなら、まず親が先に酸素マスクをします。
これが緊急時に真っ先に考えなければならないことです。
でも、これを「まず子どもに」と考えてしまう親が多い。
「それではだめですよ」とリスク管理のプロなら言う、ということです。
まず、親がしっかりしなくちゃいけない。それが先。
これは日常のさまざまな判断でも同じです。まず、親が先。大人が優先です。そしてちゃんと余裕を持てる大人が、「余力」で子どもの世話をするのです。
ところが、こういう判断が正しいのだ、という「実感」を、アダルト・チルドレンは持てない。
なんでかというと、親に自尊心がなかったから。ようするに、「正しい親の姿」というものを見たことがないからですね。
知らないものはしょうがないんで、これは学習するしかないわけです。実感なんか持てないけど、それはやるしかない。
でも実感わかないから、つい「親と子どもが対等で、あなたと私の関係でいることが大事なんだ」とか思ってしまう。
いや、子どもと大人の区別をつけないってことそのものがストレートに虐待なんですよ。ほんと。マジに。
あるいは、自分の親がそういう自尊心を持っていない親だったことを指して「親を許す」とか言う。
いやいや、「自尊心がないこと」を許してたらアカンのよ。違うってそれは。「ない」ことが問題なのだから、身につけないとダメなんだ。そっちが優先だって。親を許してる場合じゃないよ。
自尊心のなかった親を「許す」ということは、ストレートに自分の自尊心のなさを肯定することにしかならないわけです。それじゃ問題はいっこうに解決しないわけで。そうやってACは世代間連鎖してしまうのです。
「私は素晴らしい。私は私が大好きだ。無限の力を持っている。」
と思うこと、唱えること。
「子どもより自分優先。まず自分を育てること。」
この二つが必要であるという事を、まずアダルト・チルドレンは気付かないとダメです。
これに気付かないと、生活そのもののコントロールができません。
これに気付かないとどうなるのかというと、子どもと共依存関係になってしまいます。「子どもがいないと自分の存在価値がない」という感覚になってしまう。
で、この感覚こそ、まさに児童虐待そのものなんです。親が自分の価値を感じないということは、子どももまた自分の価値を感じないという事ですから、子どもの自尊心を傷つけることになります。それがストレートに虐待ということです。
自尊心の低かった親の事を「許す」などと言っているのが、まさに「子どもとしての自己欺瞞」なんですね。
現実を見よ。
アダルト・チルドレンの親はたいていアルコール依存症であったり、ギャンブル依存症であったりして、本来、親として持っておくべきだった「お手本としての親の態度」を取り得ていないのです。それがまごうかたなき現実なのであって、まずはそういう現実認識をすることが自己欺瞞より優先するのです。
「私はお手本を見ることなく大人になってしまった。」
この認識が、まず必要なんです。
それが、まごうかたなき現実です。
この認識がないままであることが、一番問題なんですね。
「お手本を知らずに大人になった」
その認識がないから「親と子が対等なのが良い」とか「親を許すこともできないのか」とかの、ピントのぼけた話になってしまう。
まず、現状認識を正しくすることです。アダルト・チルドレンに必要なのは、まずそれでしょうね。
もし、自分が自分に自信も持てないままに親になってしまった人がいたら、まず自分の心の中を総ざらえして、上記のような間違いをやってないかどうか確認してください。
で、もし「親と子が対等」とか「自尊心のない親を許す」とかの発想がどうしても出てしまうとしたら、その感覚こそが「子どもの頃の生き残り戦略として身につけてしまった誤った考え方」なんだと気付いていただきたい。
でないと自尊心の無さが子どもに遺伝してしまいます。
そして、とにかく、今日、いますぐでもいいですから「私は私が大好きだ。私はとっても素晴らしい。無限の力を持っている。」と唱えてください。一日に100回くらい唱えてもかまいません。
多ければ多いほどいい。
そうすることがとても大事です。
愛とは受け取るものではなくて与えるものです。
「子どもから愛をもらった」とか言ってる親がいますが、それは搾取です。まず与えることをしましょう。
そのためには与えるべき愛を自分で生み出す必要があります。
その「愛」は、まず「自分を愛する」という方法論です。
まず自分を愛する愛し方を自分で実践しましょう。そうして生まれた自信や自尊心をこそ大切にします。
親に自尊心ある態度が取れれば、子どもはそれを見て真似します。これが「愛を与える」ということです。他のやり方はありません。
これをせずに「子どもから愛をもらった」とかいうのは、子どもから搾取してるだけです。泥棒です。盗んだものは返しましょう。
愛は与えるもので、与えるためには生み出さねばならないのです。そして生み出すにはまず自分を愛することなのです。
自分を気持ちよくすることをまずする。そして、その気持ちよさをこそ、子どもにも体験させる、ということです。
というか、親が気持ちよく生活してる、という事自体が、子どもの「お手本」になるんです。ここを忘れて「子ども優先」とかやったら、親が不愉快なんだから子も不愉快です。
まず自分を気持ちよく、快適に、そして楽しくすることです。こどもは二の次、三の次でよろしい。
うーん。
なんか書こうとしてたことと全然違うこと書いてるなぁ。
依存症は「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」という話を書きたかったのだけれど、先にコントロールの仕方を書いてしまった。
いやまぁ、この方が健全だからいいや。
人間ね、気持ちいいことをするなら続くってことですよ。
そのためには子どものことを忘れて「自分」に戻る。
これが基本。自分を自分で楽しくするってことです。
んー、「自分でコントロールできないからこそ依存症なんだ」っていう気づきもすごい大事で、このことも体験談を含めて書きたかったのだけれど、またいずれ。
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