どうにも、自分の失敗とか過ちを素直に認めない人間がいて困る。

人間恥ずかしいことを恥ずかしいと感じないと成長しないのですよ。「俺は間違ってないんだ」と自己欺瞞なんかしたら終わりだよなぁ。

で、ふと自分の死ぬほど恥ずかしかったことを振り返ると、なんともはや、「漢字の間違い」の事ばかり思い浮かぶ。
そーかー。ライターだからそうなるんよなぁ。たぶん。

最初は大学時代。映画を友人達と作っていて、最終的にシナリオをまとめるのが僕の役になった。

で。

その映画は無声映画で、昔の無声映画をイメージして「字幕」が画面にドーンと出る演出だったわけです。

そこでやらかしたんですね。

完璧と書くべきところを、完壁と書いた。

分ります? 璧と壁。下に玉がくるか土が来るかなんだけど、私どっちでも一緒だと思ってたんですよ。
いまならワープロがあるから間違えようもないけど、私はずーっと、カンペキというのは完全なカベだと思ってましたから。

真っ暗な大学の試写室に何十人と学生が集まってるところで「わっ、あれじゃカンカベだよ!」と笑われまして。いやぁ、死ぬほど恥ずかしかった。

でも、そうやって指摘してくれた人には感謝するね。若い内に間違いに気づけたし。

それから次は「支持」。
これはライターになってから。だからよけい恥ずかしいんですが、「若者に支持される」と書くつもりで、何をどう勘違いしたのか「若者に指示される」と書いていた。意味不明のコピー。

あれも恥ずかしかった。顔から火が出た。あまりに堂々と間違ったコピーを書いてたから、デザイナーさんが「ねぇ、シゲくん。これ、間違ってない?」とか、おそるおそる聞いて来られたくらいで。これ、実にかっこ悪い。「お前、間違ってるぞ!」と怒鳴られるより恥ずかしい。ああ、やめてー。私が間違ってました。すみません。ごめんなさい。って感じ。

あと、「短い」の左右を逆に書いてしまうとか「邸宅」の邸も左右逆に書いてしまうとか、なんか漢字での間違いってほんと恥ずかしいなぁ。そんなんばっかしだわ。

でも、そういう「カッコ悪さ」をキチンと味わって来たからこそ、いまライターとして仕事やっていけるんだと思うのよね。

間違えた時に「カッコ悪い!!!」と思えることこそが、自分への愛情だと思うわけです。

なんちゅうかね、若いころの私は「他になんの取り柄もない。書くことくらいしかできない。」と思ってたから、書くことから逃げることができなかったんだねぇ。

ライターくらいしか俺にはできないよ。
口べただし、商才があるわけでなし、コネがあるわけでなし、誰かに可愛がられるわけでなし、金持ちの息子でもなければ、政治家に知り合いがいるわけでなし。

だから「書くこと」から逃げたら、もう他にやれることなんかないと思ってたわけで。

だから、どんなに恥ずかしくても、それは自分の責任として引き受けるしかなかった。「ああ、かっこ悪い。これは俺の無知が原因だ。」と自覚する以外に、なんの逃げ道もないわけ。

間違いは間違いなんだから、そのまま間違いとして認めて、次からは間違えないようにする、という対処しかできないわけですよ。

失敗は失敗なんだ。

それは自分でやったことなのだから、自分の責任として引き受けよってことだね。

でもなぁ、これを平気のヘイザで無視できる奴もいるし、「完カベでもいいじゃないか。間違いじゃないよ。」と開き直るような見苦しい奴もいる。

それ、アカンと思うのよな。
アカンで、それ。

あきらかな間違いを、素直に認められないような人間がいてるわけですよ。

それも若い奴ではなくて40過ぎて我を張ってるというようなのが。
アカンと思うねんなぁ、それ。

刑法と民法の違いも分ってない人がいたから、それを指摘したら、道路交通法ではうんぬんと、細目の適用でゴチャゴチャ言うとかね。

あかんやろ、それ。警察は民事不介入とか、大の大人なら知ってるでって。

それは「概略」を知らないのが問題なのであって、自分が知ってるせせこましい知識をギャースカわめいてもしゃーないわけだ。

結局、「あ、俺は知らないんだ、無知なんだ。」という事実を受け入れてないわけでねぇ。

間違ってるというのが事実なんだ。
無知で知らないというのが事実なんだ。

で、この「無知で知らない」という事実を受け入れてないってことは、要するに、「ありのままの自分」を受け入れていない、つまり自分を愛してないということなんだよね。

ありのままの自分を見ようとしない。
だから自分を愛せなくなるわけで。

無知であろうが、何も知らなかろうが、自分は自分で、自分からは逃げようがないのだから、その「何も知らない自分」という真っ正直なところから、すべてを始めていくしかないわけよ。

これをごまかすのを、自己欺瞞といいます。自分を欺いてるわけです。本当は無知なのに「知っていることにする」わけだ。

これは自分を騙していることだから、自分を愛してない証拠です。愛というのはオープンで飾らないものですからね。

で、自分を愛せずに飾り倒して、欺きまくってる人間が他者を「愛せる」はずがないんですね。絶対に無理。だって「死ぬほど恥ずかしい気持ち」から顔をそむけてるわけだから、「恥ずかしい思いをしている他者」、仕事の関係の人や家族、子供なども助けられないということになるわけですよ。

子供が失敗したときに、「恥ずかしかったか。うーん。でも知らんかってんからしゃーないわな。勉強不足やったというだけや。これからがんばっていこうな。」というような声かけができない。できるわけないよなぁ。その「恥ずかしさ」を感じ取ってやれないわけですから。

無知な自分を受け入れていないっていうのは、要するに自己肯定能力の衰えだということです。

別に、無知でもいいのだ。
知らなくてもいいのだ。
ようは、勉強したら終いやねんから。
みんな誰だって最初は無知だし、恥ずかしい失敗もするものなわけ。それを笑って認めていける力こそが「愛」なのですよ。

この簡単なことをわかってない人がいてるわけでね。
自分の間違いを素直に認められない人ね。
それこそ自分を「完璧」な人間とでも思ってるのかしらん?

人は常に、間違いを修正しながら成長していくモノなのだ。
そのためには、まず自分の「間違い」を「間違ってるぞ、俺は」と、素直に受け入れられなきゃどうしようもないだろう。

間違いは間違いなんだから。

その人ねぇ、いまだに「HTMLメールは危険じゃない」とかやってるんよなぁ。あかんで。HTMLメールは危険。テキストは安全。まぁ大まかにそうでしょ。概略。大雑把に。そんでええがな。概略それは正しい。概略君は間違ってる。そういう事だ。なに言うてんねん。ほんまに。

で、そんなチマチマしたこと、どうでもええんや。ほんまにどうでもええって。

それより、「概略正しい」を受け入れられずに、チマチマしたことばっかり気にしてしまっている、自分の心の闇を真正面から見据えないとダメだわ。

その方が遙かに問題なんやっちゅうねん。

間違ってるで、と言われたら、その場で「ハッ」と気づいて「かっこ悪ぅ。」「火が出るほど恥ずかしい」とかの自分の「実感」を、キチンと味あわないとダメ。生きている価値がない。「恥ずかしさに身もだえする」というのも、人生の味のうちの重要な要素やねんぞ。わかってんのか? そこを味あわずに逃げるというほうが間違ってる。

で、間違ったことは「恥ずかしい」と思わないとダメだわ。それは。それを「恥ずかしい」と思わない精神こそ病んでいる。
そういうことですよ。

もうね、ほんとにね。そういう事を強く思うです。
こんなところで書いてもしゃーないんやけど、当人に言っても全然反応なしなんで、しょうがなく公開の場で愚痴る。

ほんと、どうにかして欲しいです。

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