うまく言えないんですが、アダルトチルドレンというのは、自分の中に「論理矛盾」を持っている人間のことだと思うのです。

もともと自分の欲求があるにも関わらず、親が依存症でコミュニケートが成立せず、欲求不満になった時に、現実をひんまげて解釈するクセを持ったまま大きくなってしまった人間ということになります。

この「クセ」は実にタチが悪くて、とにかく現実をひんまげて解釈します。どうしようもない男を「素敵な人」と、夢見るように見つめる、などが代表例ですが、その他にもいろいろあります。

僕が知る限りで一番問題だなぁと感じたのは、本や映画などを「字義通りに解釈する」ということが出来ない、あるいは無視するというクセを持ってしまうことです。

この間から書いている、三色ボールペン読書法の「緑線」しか存在しない人間と言って良いと思います。

つまり本を読んで「大事だなぁ」と思った所には「赤線」を引いて、個人的に面白いと感じた所は「緑線」を引くということですね。

物事をどう解釈するかは、その人個人の自由だから、どう解釈してもいいし、緑線はいくらでもたくさん引けばいいのですが、現実をひんまげて解釈している人間は、この「赤線を引く」をさぼります。

というか「赤線」こそが大事なことなんだよ、というのが分ってない、あるいは分りたくないというような人間になってしまいます。

なんせ「赤線」をキチンと理解していくと、自分の「現実をひんまげて解釈している」ということに直面せざるを得なくなるからです。「赤線」をちゃんと理解していくと、とても苦しい気持ちになったり、衝動的な感情が大きくなったりして耐えられなくなるんだと思う。

それは子供の時に「現実をひんまげて解釈する」というクセを持ってしまったからなんですね。

僕の場合だと「大事なことほどうまくいかない」という感覚が体の中の無意識層に根深く入り込んでいましたから、理想主義的な意見が書かれていると反発したりということがありました。

でも、書物というものはすごいもので、やはり数多くいろいろな先人の知恵や方法論をいくつもいくつも読み比べて行くと、やはり風雪に耐えてきた金言などは、現実をいかに上手に切り盛りしていくかの素晴らしい知恵を含んでいるのだということを嫌でも理解せざるを得なくなりました。

そういう意味でも「本」というのは素晴らしいものです。

本を字義通りに読むことで、自分の内面の矛盾と向き合わざるをえない体験をいくつも経験してきましたから、色々読むうちに自分の「大事なことほどうまくいかないものなのだ」という「感覚」こそが大間違いなのだということが分ってくるわけです。

やはり書物は先人の知恵であり、まずその先人の知恵を受け取ることが重要で、そのためには「字義通り解釈する」ということをキチンとやらないと何の意味もないということになんですね。

しかしアダルトチルドレンである人間は、この「字義通りに解釈する」ということを、バカっぽいこと、どうでもいいこと、通り一遍の表面的なカッコつけ、「見栄えのええこと言うてるだけ」と感じてしまうんですね。そうやって「大事なこと」をわざと理解しようとしない。

どうしても「良い教え」が「カッコつけ」程度のことにしか感じ取れないわけです。

アダルトチルドレンも色々問題がありますけれど、これが一番の問題だと思うのですよ。

分ります?

「大事なことを分りたくない」ですよ。

なんともったいない。
なんと馬鹿なことであるか。

これをやってる限り、永遠に幸せはこないし、自分のおろかさを訂正・修正することもできないわけです。

この間の人間バトンは字義通りに解釈できれば、実に素敵なバトンだと思うのですが、どうもその字義通りの素敵さを受け取れない人がいて、私的には愕然としたんですがね。

緑線は緑線でいいのよ。それはそれでいい。でも赤線は赤線で存在してるんだから、まずそれを読み取る練習してちょ、って思う。

赤線の読み取りをせずに、緑線ばっかり読み取ってても堂々巡りをするだけだと思う。
緑線、緑線、緑線と「自分勝手な解釈」ばっかりやってると現実直視ができなくなる。まさにバカの考え休むに似たりなんですね。

たとえば、子供の要望を断らねばならない時は「これこれこういう理由があるからダメだよ。」と、普通の大人同士の会話と同じようにキチンと理由を伝えなければならないのですが、アダルトチルドレンであると自覚のない人間はこういう時に説明せずに「ぷい」と横を向いてしまって平気です。

でもこれは「無視=ネグレクト」という暴力なんですね。ところが、これを「暴力である」という認識自体ができていない。自覚なしに暴力を平気でふるっているわけです。

介護の世界とか、あるいは児童福祉の世界とかでは、この「無視=ネグレクト」は暴力であるというのは常識中の常識です。でも、現実をひんまげて解釈するアダルトチルドレンは、これを平気でやってしまう。そして、自分の子供に暴力をふるっておきながら、それを「暴力である」と認識すらできないのです。

ここが実に怖い。

子供が、「気に入らないこと」があってプイと横を向くのは、自己表現能力が低いのだから仕方ないのです。しかし大人が説明責任をほったらかして、力の弱い子供に対してプイと横を向くというようなことをするのは完全に暴力なんですね。

しかし現実をひんまげて解釈するというクセがついていて、自分がアダルトチルドレンなのだという自覚に欠ける人は、子供と同レベルになって「プイと横を向く」のも別にかまわないと思っている。子供と私が対等だからいいじゃんとか思っている。それで親子が仲良くやってるつもりになっている。

いや、それは違う。違うぞそれは。

子供は圧倒的に無力なんだ。だから親がつねに説明責任を果たしてやらねばならんのだぞ。それこそ大人がやらねばならないことだ。プイと横を向いていたら、それは暴力だ。

でも子供は大きくなってくると、いろいろ難しい質問をしてきたりする。「なんで法律を守らないといけないの?」とか、物事の本質をつく質問をしてくる。これにキチンと答えようとしたら、まず基本は書物などを「字義通り」に読んで、その答えを教えてあげるのが、まず基本です。

そして、それが出来なかった場合は「おとうちゃん(おかあちゃん)にもわからんわ」と、ちゃんと自分が知らないということを子供の前でさらけださねばなりません。(でもどうもこれができないらしいんよなぁ。いつも「言うこと聞きなさい!」と権威で押さえつけるから、「知らない」が言えないのだろうか?)

せめて「知らない」くらいは言えないとダメだよなぁ。

で、できれば「知らないからいっしょに調べよう」ということをした方がより良い。できれば、だけど。正しく、賢い親ならそうする。

で、ここで重要なのが「字義通り解釈する」です。まず、これができてないと話にならない。深読みはいくらやってもいいけど、まず表面的な字義通りの解釈ができないと全然ダメだ。子供に社会性が身に付かない。

でもアダルトチルドレンって、「大事なことほど分りたくない」という感覚が強いって場合が多いのよなぁ。
本当に大問題だ。

だから字義通りに解釈できない体質になって、結局キチンと字義通りに理解する手間は、「そのことは横に置いといて」と保留してしまい、「私が思うのは…」と緑線を引くことに夢中になってしまう。

で、そういう人に限って、子供に対する説明責任が果たせていない人間であったりするわけです。そらそうだ。字義通りの解説内容を「横に置いて」るんだから、永遠に説明できませんわな。

で、その説明責任を放棄するということこそが「暴力そのもの」なのだという事に関しては、まったく理解していない、ということなわけです。

「大事なことほど理解したくない」なわけですから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけど、これは本当に悲惨なことだと思う。

緑線引くのも悪くはないけど、緑ばっかり引いていて赤線の存在を無視しているのは、バカの考え休むに似たりだよ、と言いたい。

本当に先人の知恵というのは良いものなのだ。まずそれを素直に受け取る賢さを学ばないとダメ。

で、そのためには、自分の体の中に「大事なことほど分りたくない」という狂った感覚があるという可能性を、キチンと考えて見ることが必要だってことです。自分の「感覚」を疑うってことをしないといけない。そういうことなんですね。

そうしないと、ずーーーーーって欲求不満のままなんです。だって「大事なこと」というのは、たいてい「欲求をいかにかなえるか」という方法論のことなんですから。

その「欲求をかなえる方法論」を「うそだ!」と否定してしまいたくなる、そういう感覚を持ってしまうのがアダルトチルドレンの悲惨なところなのです。

例の「だめんずうぉーかー」なんかそのものやもんなぁ。まともで幸せになれる好青年をこそ「魅力ない」「つまんない」と好きにならないわけですよ。暴力的であるとか、性格が破綻してるとか、そういうどこかおかしい人間をこそ好きになってしまう悲しい性(さが)があって、それがえんえん続くってことになるわけです。

で、こういうことを「仕方ないんだ、それが性格なんだから」と言って諦めるのが、どうも最近の風潮のようなんだけど、それも全然間違いなんですよ。それは正せるの。直るの。直せるの。その意志を持って日々努力してればちゃんと直る。

で、その直し方は、赤線を引くことなわけ。先人の知恵をそのまま受け取ろうと思う素直さなわけ。現実をひんまげて解釈せずにそのまま解釈するやり方なわけ。それだけなのよ。ひん曲げないのだから、いちばん簡単なんだ。シンプル。そこをひん曲げるからこそおかしくなるんだ。

緑線ばっかり引くことで赤線を引かないってのは、本当に「バカの考え休むに似たり」だから、やめた方がいい。まず赤線を引く練習をしないとダメ。こればっかりは練習しないと身に付かないでなぁ。やるっきゃない、てことなんだよ。

まぁ世間的には、赤線を引くということをキチンとできる人のほうが少ないのかも知らんけどね。でも数が多ければ正しいってことではないからのぉ。日本人の大半、6割はアダルトチルドレンだという話もあって、「さもありなん」と私は思ってますからな。

ま、そういうことで、「暴力をコントロールしなければ」と言ってる人が実はネグレクトを暴力であるという認識すらなくて、その自覚がないがゆえに平気で「無視」をやり続けていて、でもそれを無自覚にやってるから、「やった」という自覚もなく、自覚がないから不満の解消にもなっておらず、ずっと欲求不満のままで、周りに迷惑かけ通しなのに、それにも気づけない、なんてバカなことがあったりするわけですわ。

三色ボールペンの齋藤孝さんが賢いなぁと思うのは、ようはそういう欲求不満の力こそを勉強に向けなさいというようなことを言ってる点ですな。賢いよなぁ、齋藤さん。

結局、そういう過剰な力を、どう発散させるかこそが課題だと言い切ってるもんな。齋藤さんは。えらい。

そういう意味で行くと、福沢諭吉も似たような事を言ってるし。福沢諭吉も偉いのよなぁ。「デモクラシー」は、いまの日本語では「民主主義」ということになってるけど、福沢諭吉は「民衆交際」と訳したらしい。見事!!! って思う。

民主主義の持っている考え方を一言で言うなら、まさに「民衆交際」だよ。本当に。これは民主主義とはどういうものなのかを、「字義通り」にキチンと勉強していって、その上で「民主主義」という概念の日本での理解のされ方が「なんか変よなぁ」というところまで理解が進めば、実感として感じ取れる。

「民主主義って多数決のことでしょ」とか間違ったことを我々は平気で思ってしまうけど、デモクラシーを「民衆交際」と訳していれば、そんな間違い、絶対に起きなかったはずなんだよなぁ。

人間はひとりひとりまったく違う。だから話し合うことが大事。無視は暴力。やってはいけないこと。だから民衆交際せよ。ここまでのことが、デモクラシーの本質でそういうことが「民衆交際」の一言で伝わる。多数決が民主主義ではないってことが一発で分る。素晴らしい。

でもいまの日本においてはデモクラシー=民主主義という言い方が普通になってるので、実はいまだに民主主義自体が完全に根付いたわけでもないのですな。だからこそ本を「字義通り」に読むということが大切なのです。

字義通りに読んではじめて、「民主主義とは多数決のこと」というのが「なんか変」というのが分ってくるのだから。

で、ここまでのことが「赤線」なのだ。いろんな書籍の「赤線」をつなぎ合わせて、この赤線より、こっちの本の赤線のほうが、うまく言えてるとか、より重要だとか、より大きな概念をあつかっているとかを繰り返していく。それが「大事」なことなわけでね。

それを「横に置く」とかするなよなーって思う。ほんとうに。
赤線は赤線でキチンと学ばないと損だぜ。それは。ほんとうに。

そういうことであります。

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