気づけない、正せないという病気。
2006年1月31日 ●じぶんの心マップ コメント (2)なんかずっとアダルトチルドレンの話を書いてますが、アダルトチルドレンの問題は一言で言うと「気づけない、正せないという病気」という言い方に尽きると思うのです。
逆に言ってしまえば、気づいた途端にこの病気は終わってしまう。けっこう楽々と修正できるんですね。
ところが「×××は、●●●のせいだ」とか、本当に他者から見るとバカみたいな理由で事実を知るのを避けていたり、あるいは他者からも「そういうことなら仕方ないね」とエクスキューズを保証してもらったりして、「真の原因」が見えなくなってしまうわけです。
だから、何が問題なのかというと「ずっと勘違いしたまま生きている病」と言ってもいいのが、アダルトチルドレンなわけです。
勘違いしたまま生きる、なんていうのは誰でもやってることですから、別に正す必要もないのかも知れないのですが、たとえば僕みたいに「どうしても彼女ができない病」だと思いこんでいたりすると、人生を棒にふってしまう、てなことにもなりかねないので、そのあたりはよくよく注意をしないといけないわけです。
「だめんずうぉーかー」の女の子たちも同じことですよね。「変な男、ろくでもない男ばっかりにひっかかってしまう」という病気です。
結婚している場合は逆にもうちょっと深刻になって、主婦だと「好きでもない男と結婚してしまってパンツを洗ってやるのが嫌で仕方ない」とかになります。
そうでなかったら子供依存になって「この子がいなかったら私には価値がない」とかになる。この場合は子供が不幸になりますね。子供が大人になってから不幸になる。二十年とか三十年とか経ってから、問題が深刻化する。
私は今年、結婚する予定にしておりますが、四十過ぎて結婚という事態に至ったのは、もう単純にアダルトチルドレンのせいです。「なぜ、女性と仲良くすることに障害を抱えてしまうのか?」ということに対する捉え方を間違えたまま、二十年も過ごしてしまったというようなことになります。
ほんとにね、ボタンの掛け違えのようなもので、勘違いがそのままになってるから問題が解決しないんですね。要するに「気づけない、正せない」なわけです。
僕の場合は「父という人」のシリーズでそのうち書きますが、子供の頃、それも二歳くらいの時に、無意識に「ほんとうに大事に思ったことほど、うまくいかないのだ」というようなムリクリな刷り込みを自分に対してやってしまっていた、というのがすべての原因なんですね。
それもまだ幼い子供の頃の「思いこみ」ですから、理屈になってないわけですよ。感情と気分みたいな「感覚」で体にしみついていたわけです。
そういう「感覚」を体に染みつかせておかないと、報われないって思ってたんでしょうな。子供ですから。自分の気分を整えるために、そういう「感覚」で調整してたんだと思う。
でも、そういう「思いこみ」をずっと抱えていたが故に、「ほんとうに大事な人」が出てこようとしたとき、本当に好きになろうとした相手に対して、「ぶちこわし」をしたくなる衝動が襲ってきてたんですね。
まぁ、バカな話なんですが。でも事実なんだからしょうがないですわ。
前後の脈絡なく、いきなり「結婚しよう」と迫ったりとか、なんかそんなパターンですな。ぶち壊してるとしか思えない行動を毎回取ってましたねぇ。それも内面からわき出る衝動的な感情があって、それを押さえられないというような、そんな感覚だったわけで。
その「衝動的な感覚」が、子供のころの思いこみに由来してるのだと気づいたら、もうあっさりそういうことがなくなっちゃって、「なんだ、こんな簡単なことだったんじゃないか」ってなってしまった。
ただ恐ろしいことに、そういうアホな衝動に二十年も振り回されてしまったという事実だけがぽつねんと存在してるわけですが、まぁそれはこれから取り返していくしかないわけで。
で、その「勘違いしていた二十年」という期間、この「衝動」について、自分がどう思っていたかというと「これこそが僕自身の真の気持ちなのだ」とか思ってたわけです。アホなことに。
いやー、三つ子の魂百までとは、よう言うた。
おそろしいことです。
で、それをまた、二十歳のころに付き合っていた彼女のせいにしていたわけです。「あの時の別れが強烈で、それがトラウマになってしまってるのかもしれない」とか考えてた。
自分でもそう思ってたし、周りもそう理解してたし、それで事は進んでたわけです。
「そりゃ、あの子は可愛い子だったしなぁ、うまくいかなかったら、ショックも大きいだろうよ。」
てな感じ。
で、自分でもそう思いこんでたわけです。
でも違うんだよなぁ。
そんなこと全然関係なかった。
ようは子供の頃に「大事なことほどうまくいかない」という「感覚」が体に染みついていたということが問題だったというそれだけのことだったんですねー。
ここに気づくのには、実は二十歳のころに何故かつけていた日記がすごい役に立ったのですよ。実は。
「俺はあの子とのことがうまく行かなかったから、それが原因でいまも彼女ができないのだ」という思いこみを抱えたまま、それでも、なんとかせねばと思っていろいろ考えてたときに、そのころの日記を読んでハッとしたんですね。
実はその最初に彼女とは「遊び半分」でつきあい出してたのだ、ということが良くわかったのです。日記に書いてある自分の気持ちを読み直すと、当時としてはういういしい若者だったから「真剣」なつもりだったのだけれど、いまのこの年齢から読むと真剣みが全然ないというのが、ものすごーく良く分かったわけです。
「おまえなぁ、そんなええかげんな気持ちで女の子と付き合ったら、相手が可哀想やぞ」と言いたくなる。そんな感じ。
そこでハッとしたわけですよ。本気でもなく遊び半分でつきあってたのに、「トラウマ」なんかになるわけない。
でしょ?
あ、原因はここにはない!
ですよ。
なんかね、ものすごく高級な推理小説を読んでる時のような気分ですよ。
自分のことなのに、自分でそれが把握できていない。
まさに「気づけない、正せないという病気」なんですね。
「可愛い女の子との大恋愛の末、大失恋になったトラウマで彼女ができなくなって四十過ぎまで独り身の男」とかの勝手な言い訳にずっと便乗してただけなんです。
ほんとうは子供の頃の親子関係に原因があった。で、別にそれは親が悪いとかなんとかはどうでも良くて、(ほんとに親はどうでもいいんです。関係ない。大事なのは自分。)あまりに幼かったが故の「勘違い」こそが原因だったという、そういうことなわけです。
つまりは「自分の勘違いをそのままにしてしまった」という失敗なわけです。「自分の失敗」なんです。単純に。
これねぇ、つまらないように見えるけど、すごく大事なことなんですよ。
「誰かのせい」にしてる限り、この問題は絶対に治らないわけです。だって「原因はあいつ」だから、「あいつ」が変わらない限り治らないってことになる。
でも違うのです。「原因は自分」なのです。自分の幼いころの「思いこみ」が原因なのです。
で、自分が原因なのだから、自分で修正可能なわけです。
ここではじめて治る可能性が出るわけですよ。
他人のせいにしている限り、この問題の解決は永遠にない。
僕の場合で言うと、女の子と仲良くなって、良い関係になって、たとえば「継続的なおつきあい」をしようと思うほどに「大事」になりかかって来た時に「大事なことほど、うまくいかない」という「感覚」が強く湧いてきて、「何かとんでもない事」を発作的に、衝動にかられてやってきてしまってたわけです。
だから、本来は、その発作的行動をやめて修正するだけでいいんですね。この問題行動にだけ注意を払って、そこを修正しようという考え方が認知心理学や行動療法とかなのだと思うのですが、どうも僕の場合はそれではうまくいかなかったんですね。「衝動」がどうにも強すぎて、コントロールできると思えなかったので。
で、苦しんで、いろいろ考えていって、アダルトチルドレンに出会ったということになります。
もうね、アダルトチルドレンの概念に出会って、自分がアダルトチルドレンなのだ、と気づいたら一気でしたね。一気に問題が解決できた。
だって、自分なんだもん。原因は。
ようするに。
自分のことなんだから、自分でどうにかなるわけ。
意志の問題なわけ。
それまでずっと「二十歳の頃に別れた彼女」のせいにしてたから、問題が解決しなかったのですから。
そんなもんね、ちゃらちゃらした恋愛なんかが「トラウマ」になんかなったりしませんよ。「トラウマ」っていうのは、生きるか死ぬか、生死に関わるような出来事に直面しなければ起きない事柄なわけです。
で、普通、大人になるまでというか、大人になってから「生死に関わるような出来事」になんて滅多に出会わないですよ。それこそ阪神大震災とかでも起きないと。何が「恋愛でトラウマ」なんだよ、バカ>自分 ってことです。
でも、「言葉ももっていないころの自分」にとっては、「親子関係は死活問題」なので、実は子供の頃の親子関係っていうのは、まさに「生死に関わる大問題」なわけです。
しかも「言葉も持ってない段階」だから、この時に感じたことが一生を左右するというのは充分にありえるわけですね。
子供ですから現実対処能力もなく、「事実を曲げて解釈する」というような合理化を行うしか他に方法がなくて、それが大人になってから、「衝動」という形で、心の奥底から湧いてくるということにつながるわけです。
大人になったんだから、もう「無理な合理化作業」などしなくても良いわけで、その「衝動」が湧いてくるようなこと以外は、たいていなんでも屁でもなく対処できてるわけです。
でも、その「衝動」が湧いてくる対象にだけは、そういうまともな態度が取れなくなってしまうわけですね。
で、この「衝動」の対象というのが、人それぞれに違っていて、「恋人」が対象だったり、「自分の子供」が対象だったりとかするわけです。
僕の場合は「大事なことほどうまくいかない」という、アホな思いこみが自分を縛り付けていて、人間関係を始める前にやめるという馬鹿なことをやり続けていたわけですけども、アダルトチルドレンの症状は、たいていの場合、人間関係に齟齬が生じるのが通常のパターンですから、思いこみの内容によっては「大事な人をふみつけにする」とか「大事な人を利用する」というような形になりやすいんですね。
だから、大人になって家庭も持って、それでいて自分のアダルトチルドレン的要素をキチンと顧みてない人は、旦那や子供を犠牲にしている可能性が高いですので、要注意です。
とにかく、「×××は、●●●のせいだ」という発想を持っている事自体が問題で、たいていの問題は自分が変わる、あるいは行動することで解決可能なはずです。
まず、「自分」というものを見つめるということが何より大切で、これができてないとするならば、それが一番の問題・課題になりまるね。
とにかくアダルトチルドレンというのは「私はアダルトチルドレンである」と自分に宣言して、自分の内面に問題がないかを自分で探っていく態度そのもののことでもあります。
それはひっくり返して言うと「自分の問題を他者のせいにしない」という態度そのものであり、アダルトチルドレンが親子関係に原因があるという事実を踏まえながらも、決して「親が悪い」という他者のせいにはしないということもまた、とても重要なポイントだと思います。
「自分の問題は自分の心が引き起こした自分の考え方の反映である」ということさえわかっていれば、この「気づけない、正せない」という病気は治ります。
だから、アダルトチルドレン問題というのは、ようはいかに「原因は自分にあったのだ」と気づくか、その気づきの過程そのものだという気がします。
まさに「気づけない」ことが問題なのであって、そこに「気づく」ことができれば、それがすなわち解決である、ということなんですね。
逆に言ってしまえば、気づいた途端にこの病気は終わってしまう。けっこう楽々と修正できるんですね。
ところが「×××は、●●●のせいだ」とか、本当に他者から見るとバカみたいな理由で事実を知るのを避けていたり、あるいは他者からも「そういうことなら仕方ないね」とエクスキューズを保証してもらったりして、「真の原因」が見えなくなってしまうわけです。
だから、何が問題なのかというと「ずっと勘違いしたまま生きている病」と言ってもいいのが、アダルトチルドレンなわけです。
勘違いしたまま生きる、なんていうのは誰でもやってることですから、別に正す必要もないのかも知れないのですが、たとえば僕みたいに「どうしても彼女ができない病」だと思いこんでいたりすると、人生を棒にふってしまう、てなことにもなりかねないので、そのあたりはよくよく注意をしないといけないわけです。
「だめんずうぉーかー」の女の子たちも同じことですよね。「変な男、ろくでもない男ばっかりにひっかかってしまう」という病気です。
結婚している場合は逆にもうちょっと深刻になって、主婦だと「好きでもない男と結婚してしまってパンツを洗ってやるのが嫌で仕方ない」とかになります。
そうでなかったら子供依存になって「この子がいなかったら私には価値がない」とかになる。この場合は子供が不幸になりますね。子供が大人になってから不幸になる。二十年とか三十年とか経ってから、問題が深刻化する。
私は今年、結婚する予定にしておりますが、四十過ぎて結婚という事態に至ったのは、もう単純にアダルトチルドレンのせいです。「なぜ、女性と仲良くすることに障害を抱えてしまうのか?」ということに対する捉え方を間違えたまま、二十年も過ごしてしまったというようなことになります。
ほんとにね、ボタンの掛け違えのようなもので、勘違いがそのままになってるから問題が解決しないんですね。要するに「気づけない、正せない」なわけです。
僕の場合は「父という人」のシリーズでそのうち書きますが、子供の頃、それも二歳くらいの時に、無意識に「ほんとうに大事に思ったことほど、うまくいかないのだ」というようなムリクリな刷り込みを自分に対してやってしまっていた、というのがすべての原因なんですね。
それもまだ幼い子供の頃の「思いこみ」ですから、理屈になってないわけですよ。感情と気分みたいな「感覚」で体にしみついていたわけです。
そういう「感覚」を体に染みつかせておかないと、報われないって思ってたんでしょうな。子供ですから。自分の気分を整えるために、そういう「感覚」で調整してたんだと思う。
でも、そういう「思いこみ」をずっと抱えていたが故に、「ほんとうに大事な人」が出てこようとしたとき、本当に好きになろうとした相手に対して、「ぶちこわし」をしたくなる衝動が襲ってきてたんですね。
まぁ、バカな話なんですが。でも事実なんだからしょうがないですわ。
前後の脈絡なく、いきなり「結婚しよう」と迫ったりとか、なんかそんなパターンですな。ぶち壊してるとしか思えない行動を毎回取ってましたねぇ。それも内面からわき出る衝動的な感情があって、それを押さえられないというような、そんな感覚だったわけで。
その「衝動的な感覚」が、子供のころの思いこみに由来してるのだと気づいたら、もうあっさりそういうことがなくなっちゃって、「なんだ、こんな簡単なことだったんじゃないか」ってなってしまった。
ただ恐ろしいことに、そういうアホな衝動に二十年も振り回されてしまったという事実だけがぽつねんと存在してるわけですが、まぁそれはこれから取り返していくしかないわけで。
で、その「勘違いしていた二十年」という期間、この「衝動」について、自分がどう思っていたかというと「これこそが僕自身の真の気持ちなのだ」とか思ってたわけです。アホなことに。
いやー、三つ子の魂百までとは、よう言うた。
おそろしいことです。
で、それをまた、二十歳のころに付き合っていた彼女のせいにしていたわけです。「あの時の別れが強烈で、それがトラウマになってしまってるのかもしれない」とか考えてた。
自分でもそう思ってたし、周りもそう理解してたし、それで事は進んでたわけです。
「そりゃ、あの子は可愛い子だったしなぁ、うまくいかなかったら、ショックも大きいだろうよ。」
てな感じ。
で、自分でもそう思いこんでたわけです。
でも違うんだよなぁ。
そんなこと全然関係なかった。
ようは子供の頃に「大事なことほどうまくいかない」という「感覚」が体に染みついていたということが問題だったというそれだけのことだったんですねー。
ここに気づくのには、実は二十歳のころに何故かつけていた日記がすごい役に立ったのですよ。実は。
「俺はあの子とのことがうまく行かなかったから、それが原因でいまも彼女ができないのだ」という思いこみを抱えたまま、それでも、なんとかせねばと思っていろいろ考えてたときに、そのころの日記を読んでハッとしたんですね。
実はその最初に彼女とは「遊び半分」でつきあい出してたのだ、ということが良くわかったのです。日記に書いてある自分の気持ちを読み直すと、当時としてはういういしい若者だったから「真剣」なつもりだったのだけれど、いまのこの年齢から読むと真剣みが全然ないというのが、ものすごーく良く分かったわけです。
「おまえなぁ、そんなええかげんな気持ちで女の子と付き合ったら、相手が可哀想やぞ」と言いたくなる。そんな感じ。
そこでハッとしたわけですよ。本気でもなく遊び半分でつきあってたのに、「トラウマ」なんかになるわけない。
でしょ?
あ、原因はここにはない!
ですよ。
なんかね、ものすごく高級な推理小説を読んでる時のような気分ですよ。
自分のことなのに、自分でそれが把握できていない。
まさに「気づけない、正せないという病気」なんですね。
「可愛い女の子との大恋愛の末、大失恋になったトラウマで彼女ができなくなって四十過ぎまで独り身の男」とかの勝手な言い訳にずっと便乗してただけなんです。
ほんとうは子供の頃の親子関係に原因があった。で、別にそれは親が悪いとかなんとかはどうでも良くて、(ほんとに親はどうでもいいんです。関係ない。大事なのは自分。)あまりに幼かったが故の「勘違い」こそが原因だったという、そういうことなわけです。
つまりは「自分の勘違いをそのままにしてしまった」という失敗なわけです。「自分の失敗」なんです。単純に。
これねぇ、つまらないように見えるけど、すごく大事なことなんですよ。
「誰かのせい」にしてる限り、この問題は絶対に治らないわけです。だって「原因はあいつ」だから、「あいつ」が変わらない限り治らないってことになる。
でも違うのです。「原因は自分」なのです。自分の幼いころの「思いこみ」が原因なのです。
で、自分が原因なのだから、自分で修正可能なわけです。
ここではじめて治る可能性が出るわけですよ。
他人のせいにしている限り、この問題の解決は永遠にない。
僕の場合で言うと、女の子と仲良くなって、良い関係になって、たとえば「継続的なおつきあい」をしようと思うほどに「大事」になりかかって来た時に「大事なことほど、うまくいかない」という「感覚」が強く湧いてきて、「何かとんでもない事」を発作的に、衝動にかられてやってきてしまってたわけです。
だから、本来は、その発作的行動をやめて修正するだけでいいんですね。この問題行動にだけ注意を払って、そこを修正しようという考え方が認知心理学や行動療法とかなのだと思うのですが、どうも僕の場合はそれではうまくいかなかったんですね。「衝動」がどうにも強すぎて、コントロールできると思えなかったので。
で、苦しんで、いろいろ考えていって、アダルトチルドレンに出会ったということになります。
もうね、アダルトチルドレンの概念に出会って、自分がアダルトチルドレンなのだ、と気づいたら一気でしたね。一気に問題が解決できた。
だって、自分なんだもん。原因は。
ようするに。
自分のことなんだから、自分でどうにかなるわけ。
意志の問題なわけ。
それまでずっと「二十歳の頃に別れた彼女」のせいにしてたから、問題が解決しなかったのですから。
そんなもんね、ちゃらちゃらした恋愛なんかが「トラウマ」になんかなったりしませんよ。「トラウマ」っていうのは、生きるか死ぬか、生死に関わるような出来事に直面しなければ起きない事柄なわけです。
で、普通、大人になるまでというか、大人になってから「生死に関わるような出来事」になんて滅多に出会わないですよ。それこそ阪神大震災とかでも起きないと。何が「恋愛でトラウマ」なんだよ、バカ>自分 ってことです。
でも、「言葉ももっていないころの自分」にとっては、「親子関係は死活問題」なので、実は子供の頃の親子関係っていうのは、まさに「生死に関わる大問題」なわけです。
しかも「言葉も持ってない段階」だから、この時に感じたことが一生を左右するというのは充分にありえるわけですね。
子供ですから現実対処能力もなく、「事実を曲げて解釈する」というような合理化を行うしか他に方法がなくて、それが大人になってから、「衝動」という形で、心の奥底から湧いてくるということにつながるわけです。
大人になったんだから、もう「無理な合理化作業」などしなくても良いわけで、その「衝動」が湧いてくるようなこと以外は、たいていなんでも屁でもなく対処できてるわけです。
でも、その「衝動」が湧いてくる対象にだけは、そういうまともな態度が取れなくなってしまうわけですね。
で、この「衝動」の対象というのが、人それぞれに違っていて、「恋人」が対象だったり、「自分の子供」が対象だったりとかするわけです。
僕の場合は「大事なことほどうまくいかない」という、アホな思いこみが自分を縛り付けていて、人間関係を始める前にやめるという馬鹿なことをやり続けていたわけですけども、アダルトチルドレンの症状は、たいていの場合、人間関係に齟齬が生じるのが通常のパターンですから、思いこみの内容によっては「大事な人をふみつけにする」とか「大事な人を利用する」というような形になりやすいんですね。
だから、大人になって家庭も持って、それでいて自分のアダルトチルドレン的要素をキチンと顧みてない人は、旦那や子供を犠牲にしている可能性が高いですので、要注意です。
とにかく、「×××は、●●●のせいだ」という発想を持っている事自体が問題で、たいていの問題は自分が変わる、あるいは行動することで解決可能なはずです。
まず、「自分」というものを見つめるということが何より大切で、これができてないとするならば、それが一番の問題・課題になりまるね。
とにかくアダルトチルドレンというのは「私はアダルトチルドレンである」と自分に宣言して、自分の内面に問題がないかを自分で探っていく態度そのもののことでもあります。
それはひっくり返して言うと「自分の問題を他者のせいにしない」という態度そのものであり、アダルトチルドレンが親子関係に原因があるという事実を踏まえながらも、決して「親が悪い」という他者のせいにはしないということもまた、とても重要なポイントだと思います。
「自分の問題は自分の心が引き起こした自分の考え方の反映である」ということさえわかっていれば、この「気づけない、正せない」という病気は治ります。
だから、アダルトチルドレン問題というのは、ようはいかに「原因は自分にあったのだ」と気づくか、その気づきの過程そのものだという気がします。
まさに「気づけない」ことが問題なのであって、そこに「気づく」ことができれば、それがすなわち解決である、ということなんですね。
コメント
そういえば、私の母は私よりひどい超重症のアダルトチルドレンなわけですが、確かに今の私から母を見ると辛そうにしていますね。自分でアダルトチルドレンだと認めてしまえばいいのに。そう思って母に告げたらブチキレ!逆ギレ!大爆発!火にガソリンを注ぐ結果となりました。
ただ、アダルトチルドレンは、その「間違いに気付く」を避けることを子供の頃に無意識に刷り込んでしまったわけで、気付けない人はもうずーっと一生不満を抱えて生きていくしかないんだと思うんですね。
でも、自分が「アダルトチルドレンなんだ」と気付くと楽でしょ? 「ああ、そうか、そういうことだったんだ」とホッとできる。それだけでも救いだと思うんですよね。少なくともその瞬間、重荷はなくなる。
本当はそれに気付いた後でも自分に厳しくして、いろいろ成長していかなきゃならないんだろうとは思うのですが、まぁそれはそれとして、何よりアダルトチルドレン問題に気付くのが、最初に必要なことで、それこそ自分の水路の一番の根本のどぶさらいという気がするんですよ。
ほかにもどぶさらいはしなくちゃいけないんだろうけど、とにかく一番詰まってたところは掃除できたよなと、まずはそれだけでいいような気がします。
たぶん他にもいろいろ溝掃除をしないといけないんだろうけど、「掃除したらきれいに流れる」とわかってれば、掃除するじゃないですか。この「掃除したらきれいに流れる」を体感せずに生きてきたのがアダルトチルドレンなわけだから、まぁ気付いた段階で、ほぼオーケーだという気はしますけどね。
いままで溝がつまってたんだということ自体に気付いてなかったわけだから、世界観自体が違うと思うんですけどね。どうなんだろう? 細かい点まではわからないですね。僕もまだまだ溝掃除の途中ですし。