ちょっと個性と共通性について書いたので、もう少し解説をしておきたいと思う。
人間がひとりひとり違うのなんて当たり前で、そこをギャースカわめいてにこだわる人間こそ、「個人」というものの考え方の豊かな広がりが分っていない人間なのだということを強く指摘しておきたい。
人間の顔は、みんな違う。ひとりひとり違う。全部違う。ことごとく違う。全然違う。まったく違う。
つまり「同じであるはずがない」のである。同じ顔がいたら驚きだ。同じ顔の人間がいたら、双子か三つ子か六つ子か、なんかそういうものだ。あるいは整形か。改造人間である。
ここまで当たり前のことは、「わざわざ言わない」のが当たり前なのだ。言わずもがな。説明の必要なし。
だって、個人の特定って、みんな普通に顔でしてるじゃん。顔がみんな違うからそれができるわけで。「もともと異なっていて当たり前」なんだから、それはそのままですべての人間関係に通用するのです。だから「個性が大事」なんてわざわざ強調する必要なんかこれっぽっちもない。
だって、人間は、「何もしなくても個性の塊」だから、です。
ありのままで個性の塊なのだ。そのままほったらかしでも個性的です。何の加工も必要ありません。それはもう、素晴らしい天与の才能と言ってよろしい。いちいちいじる必要もないのです。
であるにもかかわらず、教育においても、生き方についても、学びについても「個性的で自分なりのやり方」を、うんぬんする一連の考え方があって、それはどうにも信用できかねるのだ。
そういう人の話を聞いていると、まるで「個性」が後付されるかのように感じる。
スターウォーズにはストームトルーパーという真っ白な甲冑を着た兵士が登場するが、あれが実はクローン人間でして、エピソード2において、みんながみんな同じ顔をした、兜を外したトルーパーたちが並んでいるシーンが登場するのだけれど「個性が大事」と叫んでいる人の意見を聞くと、人間がああいうクローンとして生まれて来ていると考えているのではないか? と思ってしまう。
そんなもの、一定のルールや学習法、考え方、条件など「変わらないもの」をあてはめた方が、人間の個性は推し量りやすいのだ。当然じゃないか。
このあたりの考え方については「ドラゴン桜」が実に良い解説書だよなぁ。ドラゴン桜は面白いです。教育を考えるうえにおいて、ドラゴン桜を読んでない人は、とりあえず流行遅れというか、一方の雄、重要な考え方を取りこぼしているということになると思う。ドラゴン桜は重要。
-----------
さて、で、僕がいいたいのは、「では、人間はみんな違う顔なのか?」という問いである。
確かに個人の特定が顔でできるくらい人間はみな個性的だ。
でもしかし。
誰もが目を二つ持ち、鼻がひとつで鼻の穴がふたつ、耳もふたつで、口はひとつ。頭には毛が生えていて、目の上には眉毛がある。というくらいは、「大方同じ」なのだ。
ちゃーーーーんと「共通性」はあるのだ。
で、大事なのはこちらだ。
自分と異なる人間同士が、語り合い、分かち合うべきなのは、この「共通性」を通じての共感ではないのか?
この共通性があるからこそ、人と人は理解しあえる。重要なポイントである。
これこそが、「三色ボールペン学習法」における赤線なのだ。
ひとりひとりの個性の違い、その微妙な差を大切にしなければならないからこそ、共通な事柄を重視する必要があるのだ。
人間にはみな目が二つある! と言っても、それは別に「決めつけ」ではなかろう。
ましてや、「人間にはみな目が二つある!」と言うことが、果たして「人間の顔の違い」を否定することになるのか? ということだ。
個性が大事なのは、至極当然なので、あまり強調したりはしないのだが、「個性が大事」とする主張が、あまりに強い時、私はなんだか気持ち悪い主張だなぁって思ってしまう。「あなたは人間をクローンかなんかと間違えてないかい?」とか思う。もともと個性的なんだから、そんなこと強調しても意味ないじゃんって感じるわけです。
もともと持っているものを引き出すってことなら、いくらでもうなづくんだけどもね。
やっぱり結局、「赤線と緑線と両方をテキストに引きなさい」とした齋藤孝さんの考え方が、実に利にかなっているってことだと思う。考え方として実にまっとうだよなぁ。正しいと思う。
で、齋藤さんいわく、「緑の線は引きやすいが、赤の線を引くのは練習が必要」なのだ。練習、経験、積み重ねが必要なのだ。そして、それを勉強と言うのだと思う。
だから単純に「個性、個性!」と叫んでいる人は緑線ばっかり引いていて、赤線を引く練習をしてないだけに過ぎず、おなじテキストを読みながら「大事なことだけ読み落としている」状態なのだ。
ここね、すごく大事。
同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とすんです。
ここ、何回繰り返してもいいくらいに重要。
「同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とす」んです。
で、「読み落としている人」は、ずーっと読み落としたままなわけ。
で、なんで「読み落としてしまうか」というと、赤線が緑線を否定してしまうと勘違いしてるからです。
「誰もが目をふたつ持っている」という事は、別に「個性の否定」じゃないんだよってことです。
ところが、これを勝手に「個性の否定だ」と、自分勝手な「読み方」をして、それで「個性が大事!」とかギャースカわめく。
いや、それ、単に「勉強」が足りないだけだから。本当に。
人間には目が二つあるという共通項を正しく認識するからこそメガネという便利なものも生まれてきたし、おなじように「みんな胃腸を持っている」と認識したからこそ医学が生まれ、病気にならずに生をまっとうできるようになってきたんです。
まさに「違いがあるからこそ共通項が重要」であって、その「違い」と「共通項」は、全然、最初から対立項ではないのです。並立項目なの。
でも、この「並立」を「対立」と、どうしても考えてしまう人というのがいて、でもって「対立」と勝手に思いこんでいるから、いつまでたっても、百年たっても、並立している「共通項の大切さ」を学ばない。
この「共通項の大切さを学ばない」という態度に関しては、それは完璧な間違いなわけです。それは許されざる事。明確に悪いことなわけね。だから「それは間違っている」と言わなきゃしょうがなくなるのだけれど、そう言うと「決めつけてる」とか言われる。なんだかなー。ほんとに。
でも、その「学ばない態度」というのは、ようするに「個性が共通項に圧殺される」という、実際には存在しない恐怖によって生まれている勘違いなわけです。
勘違いなんだよ、そんなもなぁ。わかってるかぁ!
で、「学ばない態度」なんてのは、最初から「間違い」なのよ。これはどうしたって。そういうこと。
つまり、「ありもしない恐怖」によって自分を成長させる機会を失っているという、そういう構造でして、このあたり実はアダルトチルドレンの精神構造がまさにそれでねぇ。
この、「パイプのつまり」を治さないと、本当に必要で重要な知識や考え方、豊かな精神生活は得られないと私は思うのだ。
「共通性の重要さ」みたいなことを、「学ばないことで身を守る」てなことで拒否していたら、そら成長がないのは当然ですよ。当たり前だ。
「学ばないことで身を守る」
これ、本当に嫌い。
大嫌い。
「学ばないことで身を守る」と、つねにセットになっているのが「レッテル貼り」です。「あいつは左やから」「あいつは右やから」「あの人は頑固だから」「あの人は決めつけるから」「あの人は○○主義者だから」「あの人は××だから」等等等。
レッテルを貼って安心するのな。で「学ばないことで身を守る」をえんえんと続ける。
もう、本当に嫌。心底嫌い。コミュニケーションでけへんもん。最低や。ほんとどうでもいい。
なんなんやろね。「自分が変わってしまう恐怖」で、頭の中いっぱいなんやろなぁ。
確かに勉強すると考え方も変わるし、別の視点を持つようになる。でもそれは成長って言うんだよ。
もともと持ってる「顔の個性」をなくすわけじゃない。
そんなもん、「自分らしさ」なんか永遠になくならないよ。ずーっと変わらない。
それより、より広い視野や、実際に効力のある知識などが身に付いて楽しい部分のほうがうんと大きい。
こういう話を書くとき、いつも思うのが「百円ライターと部族の伝統の宝物を交換したおろかな原住民」の話だ。
赤線と緑線をきちんと区別する態度があれば、そんなおろかなことはしないんだって。
だまそうとするやつは、赤線と緑線の区別もついてないことをいいことに、百円ライターを「魔法の道具だ。すごいだろう。」と売りつけるんだ。
赤線と緑線の区別のついている人間は「百円ライターなんて、価値はないんだ」と、原住民にライターの仕組みや文明国の経済の仕組みを説明しようとする。
でも、「赤線と緑線の区別」ができてない原住民には「魔法の道具だ。すごいだろう。」という説明の方がはるかにわかりやすい。だから伝統の宝物という、この世に一個しかない大切な「個性」を、百円ライターと交換してしまうのだ。
そんなもの交換しちゃダメだよ。
で、そんなバカな交換をしないようにするには、赤線と緑線の違いをキチンと読み分けて本を読み、ライターの仕組みや文明国の経済の仕組みまで、学習していくしかないんだよ。他に道なんかない。
自分たちの宝物を守るためには、それしか方法はないのだ。他に方法なんかない。絶対にない。それは、人間の顔がみんなそれぞれに違うのに、目は二つ、耳はふたつと共通項があるというのと同じくらいに自明のことなのだ。
その「自明のこと」を「学ばないことで身を守る」で避けて、逃げて、耳をふさいでいたら、そら騙されるわなぁ。
でも、世間的には、「学ばないことで身を守る」をやってる人のほうが、はるかに多い。
せめてね、せめて「私は何も知らないし、学ばないから、そのままの生活でいく。」くらいの覚悟は持って欲しいのよなぁ。
「学ばないことで身を守る」をやってる人は「赤線は緑線を否定する!!」と赤線攻撃するからかなわん。近づく気にもなれん。あほくさい。
百円ライターの構造解説をしたら「異教徒の呪文で我々をたぶらかす、恐ろしい黒魔術師」と追い返されるというようなことになってしまうばかりなのだ。
あー、あほくさい。実につまらん。
とにかく「個性、個性」と言いたくなったとしたら、それはようするに「自分に対する信頼度が下がっていることだ」という、当たり前のことには気づくようにしよう。
もともと個性なんてあってあたりまえなのだ。
自分に自信が持てなくなっている、「自分が自分である自信」がゆらいでいるから、「個性」を強調したくなってしまっているにすぎないのだ、という事は意識したほうがいい。
自己同一性(アイデンティティ)がゆらいでいるということだ。
本を読む、勉強するというのは、このアイデンティティを手放さない事に尽きる。
勉強をするとき、少なからずアイデンティティはゆらぐ。自分が変わってしまう恐怖にさらされる。これは当然だ。
でも、そこで「それでも私は変わらない」という自信を持つことが学習するためのパスポートなのだ。
そしてそれは、「人間はみんな顔が違う」という事実に対して、いかに信頼感を持っているかに関わっているのだ。
そこを信じていれば、何事も恐れずに学習できるはずだ。「書籍くらいで私は変わらない」ということだ。
この根幹がゆらいでいると、学習自体ができない。
「学ばないことで身を守る」しかできなくなる。
まず、ほかとは全く違う、自分自身を愛することだ。自分を「醜いアヒルの子」と思わずに、その「違い」を、「大空に羽ばたく羽を持つ白鳥の子」と認識することだ。
まず、そこが出発点だ。
それができずに、自分を「みにくいアヒルの子」と思っているから、「共通項が私を否定する」と感じてしまうということなのだ。
要するに個性と共通性というのは、そういうことなのである。
人間がひとりひとり違うのなんて当たり前で、そこをギャースカわめいてにこだわる人間こそ、「個人」というものの考え方の豊かな広がりが分っていない人間なのだということを強く指摘しておきたい。
人間の顔は、みんな違う。ひとりひとり違う。全部違う。ことごとく違う。全然違う。まったく違う。
つまり「同じであるはずがない」のである。同じ顔がいたら驚きだ。同じ顔の人間がいたら、双子か三つ子か六つ子か、なんかそういうものだ。あるいは整形か。改造人間である。
ここまで当たり前のことは、「わざわざ言わない」のが当たり前なのだ。言わずもがな。説明の必要なし。
だって、個人の特定って、みんな普通に顔でしてるじゃん。顔がみんな違うからそれができるわけで。「もともと異なっていて当たり前」なんだから、それはそのままですべての人間関係に通用するのです。だから「個性が大事」なんてわざわざ強調する必要なんかこれっぽっちもない。
だって、人間は、「何もしなくても個性の塊」だから、です。
ありのままで個性の塊なのだ。そのままほったらかしでも個性的です。何の加工も必要ありません。それはもう、素晴らしい天与の才能と言ってよろしい。いちいちいじる必要もないのです。
であるにもかかわらず、教育においても、生き方についても、学びについても「個性的で自分なりのやり方」を、うんぬんする一連の考え方があって、それはどうにも信用できかねるのだ。
そういう人の話を聞いていると、まるで「個性」が後付されるかのように感じる。
スターウォーズにはストームトルーパーという真っ白な甲冑を着た兵士が登場するが、あれが実はクローン人間でして、エピソード2において、みんながみんな同じ顔をした、兜を外したトルーパーたちが並んでいるシーンが登場するのだけれど「個性が大事」と叫んでいる人の意見を聞くと、人間がああいうクローンとして生まれて来ていると考えているのではないか? と思ってしまう。
そんなもの、一定のルールや学習法、考え方、条件など「変わらないもの」をあてはめた方が、人間の個性は推し量りやすいのだ。当然じゃないか。
このあたりの考え方については「ドラゴン桜」が実に良い解説書だよなぁ。ドラゴン桜は面白いです。教育を考えるうえにおいて、ドラゴン桜を読んでない人は、とりあえず流行遅れというか、一方の雄、重要な考え方を取りこぼしているということになると思う。ドラゴン桜は重要。
-----------
さて、で、僕がいいたいのは、「では、人間はみんな違う顔なのか?」という問いである。
確かに個人の特定が顔でできるくらい人間はみな個性的だ。
でもしかし。
誰もが目を二つ持ち、鼻がひとつで鼻の穴がふたつ、耳もふたつで、口はひとつ。頭には毛が生えていて、目の上には眉毛がある。というくらいは、「大方同じ」なのだ。
ちゃーーーーんと「共通性」はあるのだ。
で、大事なのはこちらだ。
自分と異なる人間同士が、語り合い、分かち合うべきなのは、この「共通性」を通じての共感ではないのか?
この共通性があるからこそ、人と人は理解しあえる。重要なポイントである。
これこそが、「三色ボールペン学習法」における赤線なのだ。
ひとりひとりの個性の違い、その微妙な差を大切にしなければならないからこそ、共通な事柄を重視する必要があるのだ。
人間にはみな目が二つある! と言っても、それは別に「決めつけ」ではなかろう。
ましてや、「人間にはみな目が二つある!」と言うことが、果たして「人間の顔の違い」を否定することになるのか? ということだ。
個性が大事なのは、至極当然なので、あまり強調したりはしないのだが、「個性が大事」とする主張が、あまりに強い時、私はなんだか気持ち悪い主張だなぁって思ってしまう。「あなたは人間をクローンかなんかと間違えてないかい?」とか思う。もともと個性的なんだから、そんなこと強調しても意味ないじゃんって感じるわけです。
もともと持っているものを引き出すってことなら、いくらでもうなづくんだけどもね。
やっぱり結局、「赤線と緑線と両方をテキストに引きなさい」とした齋藤孝さんの考え方が、実に利にかなっているってことだと思う。考え方として実にまっとうだよなぁ。正しいと思う。
で、齋藤さんいわく、「緑の線は引きやすいが、赤の線を引くのは練習が必要」なのだ。練習、経験、積み重ねが必要なのだ。そして、それを勉強と言うのだと思う。
だから単純に「個性、個性!」と叫んでいる人は緑線ばっかり引いていて、赤線を引く練習をしてないだけに過ぎず、おなじテキストを読みながら「大事なことだけ読み落としている」状態なのだ。
ここね、すごく大事。
同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とすんです。
ここ、何回繰り返してもいいくらいに重要。
「同じテキストを読んでも、赤線の存在を意識してないと、大事なことを読み落とす」んです。
で、「読み落としている人」は、ずーっと読み落としたままなわけ。
で、なんで「読み落としてしまうか」というと、赤線が緑線を否定してしまうと勘違いしてるからです。
「誰もが目をふたつ持っている」という事は、別に「個性の否定」じゃないんだよってことです。
ところが、これを勝手に「個性の否定だ」と、自分勝手な「読み方」をして、それで「個性が大事!」とかギャースカわめく。
いや、それ、単に「勉強」が足りないだけだから。本当に。
人間には目が二つあるという共通項を正しく認識するからこそメガネという便利なものも生まれてきたし、おなじように「みんな胃腸を持っている」と認識したからこそ医学が生まれ、病気にならずに生をまっとうできるようになってきたんです。
まさに「違いがあるからこそ共通項が重要」であって、その「違い」と「共通項」は、全然、最初から対立項ではないのです。並立項目なの。
でも、この「並立」を「対立」と、どうしても考えてしまう人というのがいて、でもって「対立」と勝手に思いこんでいるから、いつまでたっても、百年たっても、並立している「共通項の大切さ」を学ばない。
この「共通項の大切さを学ばない」という態度に関しては、それは完璧な間違いなわけです。それは許されざる事。明確に悪いことなわけね。だから「それは間違っている」と言わなきゃしょうがなくなるのだけれど、そう言うと「決めつけてる」とか言われる。なんだかなー。ほんとに。
でも、その「学ばない態度」というのは、ようするに「個性が共通項に圧殺される」という、実際には存在しない恐怖によって生まれている勘違いなわけです。
勘違いなんだよ、そんなもなぁ。わかってるかぁ!
で、「学ばない態度」なんてのは、最初から「間違い」なのよ。これはどうしたって。そういうこと。
つまり、「ありもしない恐怖」によって自分を成長させる機会を失っているという、そういう構造でして、このあたり実はアダルトチルドレンの精神構造がまさにそれでねぇ。
この、「パイプのつまり」を治さないと、本当に必要で重要な知識や考え方、豊かな精神生活は得られないと私は思うのだ。
「共通性の重要さ」みたいなことを、「学ばないことで身を守る」てなことで拒否していたら、そら成長がないのは当然ですよ。当たり前だ。
「学ばないことで身を守る」
これ、本当に嫌い。
大嫌い。
「学ばないことで身を守る」と、つねにセットになっているのが「レッテル貼り」です。「あいつは左やから」「あいつは右やから」「あの人は頑固だから」「あの人は決めつけるから」「あの人は○○主義者だから」「あの人は××だから」等等等。
レッテルを貼って安心するのな。で「学ばないことで身を守る」をえんえんと続ける。
もう、本当に嫌。心底嫌い。コミュニケーションでけへんもん。最低や。ほんとどうでもいい。
なんなんやろね。「自分が変わってしまう恐怖」で、頭の中いっぱいなんやろなぁ。
確かに勉強すると考え方も変わるし、別の視点を持つようになる。でもそれは成長って言うんだよ。
もともと持ってる「顔の個性」をなくすわけじゃない。
そんなもん、「自分らしさ」なんか永遠になくならないよ。ずーっと変わらない。
それより、より広い視野や、実際に効力のある知識などが身に付いて楽しい部分のほうがうんと大きい。
こういう話を書くとき、いつも思うのが「百円ライターと部族の伝統の宝物を交換したおろかな原住民」の話だ。
赤線と緑線をきちんと区別する態度があれば、そんなおろかなことはしないんだって。
だまそうとするやつは、赤線と緑線の区別もついてないことをいいことに、百円ライターを「魔法の道具だ。すごいだろう。」と売りつけるんだ。
赤線と緑線の区別のついている人間は「百円ライターなんて、価値はないんだ」と、原住民にライターの仕組みや文明国の経済の仕組みを説明しようとする。
でも、「赤線と緑線の区別」ができてない原住民には「魔法の道具だ。すごいだろう。」という説明の方がはるかにわかりやすい。だから伝統の宝物という、この世に一個しかない大切な「個性」を、百円ライターと交換してしまうのだ。
そんなもの交換しちゃダメだよ。
で、そんなバカな交換をしないようにするには、赤線と緑線の違いをキチンと読み分けて本を読み、ライターの仕組みや文明国の経済の仕組みまで、学習していくしかないんだよ。他に道なんかない。
自分たちの宝物を守るためには、それしか方法はないのだ。他に方法なんかない。絶対にない。それは、人間の顔がみんなそれぞれに違うのに、目は二つ、耳はふたつと共通項があるというのと同じくらいに自明のことなのだ。
その「自明のこと」を「学ばないことで身を守る」で避けて、逃げて、耳をふさいでいたら、そら騙されるわなぁ。
でも、世間的には、「学ばないことで身を守る」をやってる人のほうが、はるかに多い。
せめてね、せめて「私は何も知らないし、学ばないから、そのままの生活でいく。」くらいの覚悟は持って欲しいのよなぁ。
「学ばないことで身を守る」をやってる人は「赤線は緑線を否定する!!」と赤線攻撃するからかなわん。近づく気にもなれん。あほくさい。
百円ライターの構造解説をしたら「異教徒の呪文で我々をたぶらかす、恐ろしい黒魔術師」と追い返されるというようなことになってしまうばかりなのだ。
あー、あほくさい。実につまらん。
とにかく「個性、個性」と言いたくなったとしたら、それはようするに「自分に対する信頼度が下がっていることだ」という、当たり前のことには気づくようにしよう。
もともと個性なんてあってあたりまえなのだ。
自分に自信が持てなくなっている、「自分が自分である自信」がゆらいでいるから、「個性」を強調したくなってしまっているにすぎないのだ、という事は意識したほうがいい。
自己同一性(アイデンティティ)がゆらいでいるということだ。
本を読む、勉強するというのは、このアイデンティティを手放さない事に尽きる。
勉強をするとき、少なからずアイデンティティはゆらぐ。自分が変わってしまう恐怖にさらされる。これは当然だ。
でも、そこで「それでも私は変わらない」という自信を持つことが学習するためのパスポートなのだ。
そしてそれは、「人間はみんな顔が違う」という事実に対して、いかに信頼感を持っているかに関わっているのだ。
そこを信じていれば、何事も恐れずに学習できるはずだ。「書籍くらいで私は変わらない」ということだ。
この根幹がゆらいでいると、学習自体ができない。
「学ばないことで身を守る」しかできなくなる。
まず、ほかとは全く違う、自分自身を愛することだ。自分を「醜いアヒルの子」と思わずに、その「違い」を、「大空に羽ばたく羽を持つ白鳥の子」と認識することだ。
まず、そこが出発点だ。
それができずに、自分を「みにくいアヒルの子」と思っているから、「共通項が私を否定する」と感じてしまうということなのだ。
要するに個性と共通性というのは、そういうことなのである。
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