父という人。[その3]
2006年1月16日 ●じぶんの心マップということで、父のことについて、また書きますが、とても当たり前のことを先に一つ書きます。
それはアダルトチルドレンの話とも密接につながるのですが、バクチ依存症の父のように、何かに依存している人間は、周りから見れば「ああ、依存症にハマってしまってるな」というのは、すぐわかる。なのに、これ、当人だけが「気づこうとしない」ってことですね。
不思議というか、困ったというか、それが人間だ、といおうか。
まぁ、ほんと、面白いくらいに、そして悲しいほどに、当人だけが気づけないんですねぇ。
そんなもの、バクチにはまっているという事は、その事自体が問題で、即刻やめなければいけないことに決まっているわけです。みんなそれをわかってるのに、当人だけが「わからない」んです。おかしな話ですが、それが依存症の本質です。
もっと一般的な依存症で言うと、タバコがありますね。あれも依存症です。
で、タバコを吸わない人からすると、「何がうまくて、あんなものを吸っているんだ」という馬鹿馬鹿しい、くだらないことにしか見えないわけですが、吸っている人からすると「こんなおいしいものはない」し、「動くアクセサリーとして素敵」なものに思えるわけです。
基本はそういう感じ方の違いでしょう。
僕もタバコを吸っていて、数年ほど前にやめたので、どちらの意見も充分に理解しているつもりですが、ま、まず冷静に考えて「タバコを吸う」という事に、積極的なメリットはありません。
体は悪くするし、お金はかかるし、持ち歩くモノは多いし。だからやめた方が良いし、何より「おいしいから吸っている」というのは、「ニコチン中毒患者なのだ」という事実を認めないために自分をごまかしている、言い訳にしかすぎないというのだけは、認めざるを得ません。
ところが、この、「自分のやっていることの非合理さを認める」ということが、人間、とてもむずかしいわけです。
重要なのは、この「事実を認める」ということです。
たぶん、アルコール中毒は自分が中毒患者であることを自覚できず、「世の憂さを晴らす良いモノ」という捉え方しかしないでしょう。
で、父の場合は「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」と思っていたに違いないのです。
しかしねぇ、これ、本当はすごくおかしいのですよ。
ま、まともな人なら、単に常識で「ギャンブルは良くない」だけでチョンです。そんなものを毎週毎週やってるのはマズい、ということくらいはわかります。
でも、実は、「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」という考え方をバクチ好きから徹底的に意見されると、実は多くの人が反論できなくなります。
たとえば、「毎週でかけたとしても数千円以内。月に二万円も使わないよ。そのくらい、他の遊びでも使うじゃない。どこが悪いんだよ。」と言われて、正しく反論できる人がいてるでしょうか?
まだ、タバコやお酒なら「体に悪いからいけないよ。」とか「体を壊すから、やめなさい。」という「常識」にサッと立ち戻れるから良いのです。
しかし、バクチ依存というのは、この点の反論をできる人がなかなかいません。それでけっこう野放しになってしまうのです。
これは常識的に言うなら「射幸心をあおるのは健全な勤労意欲を減退させるから良くない」という言い方になります。
でも、このあたりまえのことを言える人も少ないと思うのですよ。とくに今は競馬とか遊びとして普通になってきていますからね。
でも、こういう言い方がわかりにくいのなら、僕が分りやすく言い換えてさしあげます。ギャンブルがいけないのは「お金のルールを壊しているから」です。
ルールは守るためにあるのであって、そのルールを壊したら、すべてがダメになります。そして「お金のルール」こそが、ルールの中でも、もっとも一般的で、広く深く、全世界で運用されているルールなのです。だから、ギャンブルをやると、このルールを壊す楽しみにひたってしまって「ルールを守れない人」になるんですね。
「ルールを守れない」という人は、要するに「頭がおかしくなった人」なんです。
お酒やタバコをやめさせる言い方が、「体に悪いからやめなさい」であるとするなら、ギャンブルは「頭に悪いからやめなさい。」という言い方が一番正しいんです。
この本質の、いちばん怖いところが、単に国民の幸福を「守る」だけの立場でしかない役人には、実感として分りませんから、賭博禁止などを定めた法律等には、たいてい「射幸心をあおる」という表現しか出てきません。
そんな甘いもんじゃないっすよ。ギャンブルはお金のルールの破壊で、お金のルールの破壊は、脳みその破壊そのものなんですよ。
ルールというものの大切さが、どんどんわからなくなってくる。
お金は、本当にあらゆる人間の価値と「交換」できる存在ですよね? 「この歌はすばらしいなぁ」と思うから、それに対してお金を払ってCDを買ったり、大道芸人に小銭を投げたりする。
もっともプリミティブなお金のやりとりは、そういうものでしょう。実は「交換価値」であるお金は、コミュニケーションと、ほぼ同義のものであったりもするわけです。
だから、です。
うちの父親は、ギャンブル狂いになることで「コミュニケーション不全」になってしまいました。
●自分の言いたい事があっても、相手に伝わる言い方で言えない。
●伝えられないと黙る。
●フンと言ってすねる。
そういうような事しかできなくなって行った。
コミュニケーション不全なんですね。それが僕はとても悲しかったわけです。
特に、いまだからこそ「バクチは脳に悪い、やめろ。」という正しい指摘がキチンとできると思いますが、父がバクチに狂っているときは、そういう指摘ができなかった。
「いったい人間はなぜ、こういうハマってしまったものから、抜け出せないのか?」ということから考えがまったく進まなかった。
いくら「バクチはダメだ!」と倫理的な説得をしても「月にこずかい数万円とか使っても普通やないか!」という考え方には抵抗できなかった。論理的に勝てなかったんですねぇ。
でも、いまはハッキリわかります。ギャンブルは単に「お金のルール破壊」でしかないからダメなんです。そしてそれは「脳」をやられます。もう、はっきりクッキリ間違いないことなんです。
すべてのルールは、人間生活をより良くするために生まれてきているはずなんです。大前提として。その中でもお金のやりとりというものは、非常に長い期間を経て、ゆるぎなく運用されてきたルールなんです。
もちろん、お金を使わない、所有の概念そのものを変革するというような思想も生まれてきたし、人類史の中にも存在しているわけですが、ギャンブルはそんな立派なものではなく、「お金のルールが適用されてる世界で、ワザとルールを壊して喜んでいる事」だから、ダメなんです。
つまり、純粋にギャンブルは「精神異常」を増進させてしまう、悪ブースターですし、そういう父親に育てられた僕には、その悪影響があったということです。
で、実は父親のギャンブルは「お小遣い」の範囲なんか、とっくに越えてました。持ち家がまるまる借金のカタになっていたのでありますよ。
いやー、恐ろしいですね。「ルールを守らない」精神異常への道。ルールを破壊してるのだから、「小遣い範囲」を守れるわけがないのです。
というところで字数いっぱい。また続きを書きます。
それはアダルトチルドレンの話とも密接につながるのですが、バクチ依存症の父のように、何かに依存している人間は、周りから見れば「ああ、依存症にハマってしまってるな」というのは、すぐわかる。なのに、これ、当人だけが「気づこうとしない」ってことですね。
不思議というか、困ったというか、それが人間だ、といおうか。
まぁ、ほんと、面白いくらいに、そして悲しいほどに、当人だけが気づけないんですねぇ。
そんなもの、バクチにはまっているという事は、その事自体が問題で、即刻やめなければいけないことに決まっているわけです。みんなそれをわかってるのに、当人だけが「わからない」んです。おかしな話ですが、それが依存症の本質です。
もっと一般的な依存症で言うと、タバコがありますね。あれも依存症です。
で、タバコを吸わない人からすると、「何がうまくて、あんなものを吸っているんだ」という馬鹿馬鹿しい、くだらないことにしか見えないわけですが、吸っている人からすると「こんなおいしいものはない」し、「動くアクセサリーとして素敵」なものに思えるわけです。
基本はそういう感じ方の違いでしょう。
僕もタバコを吸っていて、数年ほど前にやめたので、どちらの意見も充分に理解しているつもりですが、ま、まず冷静に考えて「タバコを吸う」という事に、積極的なメリットはありません。
体は悪くするし、お金はかかるし、持ち歩くモノは多いし。だからやめた方が良いし、何より「おいしいから吸っている」というのは、「ニコチン中毒患者なのだ」という事実を認めないために自分をごまかしている、言い訳にしかすぎないというのだけは、認めざるを得ません。
ところが、この、「自分のやっていることの非合理さを認める」ということが、人間、とてもむずかしいわけです。
重要なのは、この「事実を認める」ということです。
たぶん、アルコール中毒は自分が中毒患者であることを自覚できず、「世の憂さを晴らす良いモノ」という捉え方しかしないでしょう。
で、父の場合は「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」と思っていたに違いないのです。
しかしねぇ、これ、本当はすごくおかしいのですよ。
ま、まともな人なら、単に常識で「ギャンブルは良くない」だけでチョンです。そんなものを毎週毎週やってるのはマズい、ということくらいはわかります。
でも、実は、「時たま大穴あててトクする、とても楽しい娯楽」という考え方をバクチ好きから徹底的に意見されると、実は多くの人が反論できなくなります。
たとえば、「毎週でかけたとしても数千円以内。月に二万円も使わないよ。そのくらい、他の遊びでも使うじゃない。どこが悪いんだよ。」と言われて、正しく反論できる人がいてるでしょうか?
まだ、タバコやお酒なら「体に悪いからいけないよ。」とか「体を壊すから、やめなさい。」という「常識」にサッと立ち戻れるから良いのです。
しかし、バクチ依存というのは、この点の反論をできる人がなかなかいません。それでけっこう野放しになってしまうのです。
これは常識的に言うなら「射幸心をあおるのは健全な勤労意欲を減退させるから良くない」という言い方になります。
でも、このあたりまえのことを言える人も少ないと思うのですよ。とくに今は競馬とか遊びとして普通になってきていますからね。
でも、こういう言い方がわかりにくいのなら、僕が分りやすく言い換えてさしあげます。ギャンブルがいけないのは「お金のルールを壊しているから」です。
ルールは守るためにあるのであって、そのルールを壊したら、すべてがダメになります。そして「お金のルール」こそが、ルールの中でも、もっとも一般的で、広く深く、全世界で運用されているルールなのです。だから、ギャンブルをやると、このルールを壊す楽しみにひたってしまって「ルールを守れない人」になるんですね。
「ルールを守れない」という人は、要するに「頭がおかしくなった人」なんです。
お酒やタバコをやめさせる言い方が、「体に悪いからやめなさい」であるとするなら、ギャンブルは「頭に悪いからやめなさい。」という言い方が一番正しいんです。
この本質の、いちばん怖いところが、単に国民の幸福を「守る」だけの立場でしかない役人には、実感として分りませんから、賭博禁止などを定めた法律等には、たいてい「射幸心をあおる」という表現しか出てきません。
そんな甘いもんじゃないっすよ。ギャンブルはお金のルールの破壊で、お金のルールの破壊は、脳みその破壊そのものなんですよ。
ルールというものの大切さが、どんどんわからなくなってくる。
お金は、本当にあらゆる人間の価値と「交換」できる存在ですよね? 「この歌はすばらしいなぁ」と思うから、それに対してお金を払ってCDを買ったり、大道芸人に小銭を投げたりする。
もっともプリミティブなお金のやりとりは、そういうものでしょう。実は「交換価値」であるお金は、コミュニケーションと、ほぼ同義のものであったりもするわけです。
だから、です。
うちの父親は、ギャンブル狂いになることで「コミュニケーション不全」になってしまいました。
●自分の言いたい事があっても、相手に伝わる言い方で言えない。
●伝えられないと黙る。
●フンと言ってすねる。
そういうような事しかできなくなって行った。
コミュニケーション不全なんですね。それが僕はとても悲しかったわけです。
特に、いまだからこそ「バクチは脳に悪い、やめろ。」という正しい指摘がキチンとできると思いますが、父がバクチに狂っているときは、そういう指摘ができなかった。
「いったい人間はなぜ、こういうハマってしまったものから、抜け出せないのか?」ということから考えがまったく進まなかった。
いくら「バクチはダメだ!」と倫理的な説得をしても「月にこずかい数万円とか使っても普通やないか!」という考え方には抵抗できなかった。論理的に勝てなかったんですねぇ。
でも、いまはハッキリわかります。ギャンブルは単に「お金のルール破壊」でしかないからダメなんです。そしてそれは「脳」をやられます。もう、はっきりクッキリ間違いないことなんです。
すべてのルールは、人間生活をより良くするために生まれてきているはずなんです。大前提として。その中でもお金のやりとりというものは、非常に長い期間を経て、ゆるぎなく運用されてきたルールなんです。
もちろん、お金を使わない、所有の概念そのものを変革するというような思想も生まれてきたし、人類史の中にも存在しているわけですが、ギャンブルはそんな立派なものではなく、「お金のルールが適用されてる世界で、ワザとルールを壊して喜んでいる事」だから、ダメなんです。
つまり、純粋にギャンブルは「精神異常」を増進させてしまう、悪ブースターですし、そういう父親に育てられた僕には、その悪影響があったということです。
で、実は父親のギャンブルは「お小遣い」の範囲なんか、とっくに越えてました。持ち家がまるまる借金のカタになっていたのでありますよ。
いやー、恐ろしいですね。「ルールを守らない」精神異常への道。ルールを破壊してるのだから、「小遣い範囲」を守れるわけがないのです。
というところで字数いっぱい。また続きを書きます。
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