私の父は、実に不幸な人だった。いまで言えば私生児に近い。

しかし、もっと不幸だったのは、その肝心の母にも捨てられたような扱いだったことが、いまにして思えば、よりいっそうかわいそうだったなと思う。

時は昭和元年のこと。私の祖父は旅回りの役者をしていました。おもしろいでしょ? 顔を真っ白に塗って、調子をつけたセリフなどを舞台で発していたのでしょう。

当然テレビなんかまだありません。旅役者となると、けっこうな人気者だったのではないでしょうか。
そういう時代、祖父は大阪まで出てきて、公演をします。当時おそらく26,7。それまでどんな浮き名を流してきたか分りませんが、とにかく当時19歳で料亭だかカフェだかに奉公に出ていた祖母と出会います。

まぁあれですね、いまで言うならテレビの人気ものが、若い飲み屋のねーちゃんと出来たってとこでしょう。ま、ぽーっとなって好きになって、それで子供ができちゃったって感じだったんだろうなと思う。19だもんなぁしょうがない。

昭和二年、父誕生。です。

でも、旅役者は旅に出るのが仕事です。祖父は別に悪気はなかったらしいのですが、祖母を置いて旅に出ます。
どこまで19歳の祖母と本気だったのかは分りませんが、とにかく子供が出来てますから「子供を連れてこっちに来い」と旅について来るように手紙も書いたようです。

しかし、大阪の繁華街で働いている19歳の女の子に旅役者に同行せよと言っても、これはなかなかむずかしい。なので、祖母は大阪にとどまります。そして、おそらくは旅役者と恋仲になったこと自体が間違いだったのだと気づいたのでしょう。祖母は、子供、つまり私の父を両親にあずけ、独身としての生活を始めました。

これは想像でしかないですが、いまのように結婚、離婚が自由にできる時代でもなかったでしょうから、この決断はよほどの固い決意だったに違いないのです。本当はおそらく自分の子供は可愛いに違いない。でも、19で子供を抱えて生きていけるほど、おそらく当時の世間の常識は母子家庭には優しくなかったんだろうと思います。

結局、父は母の両親、つまり私のひいじいさんばあさんに預けられて、そのまま二人が住むが奈良で育てられることになったのです。まぁ祖母の側から見れば、父の存在そのものを消したってことなんです。若い女がそれなりに生きて行くにはそうするしかないって考えたんでしょうね。

しかし、こうして書いてみると、本当に可愛そうで涙が出そうになるなぁ。存在を消されたなんて、わかってはいたけど客観的に書くとあまりに苛酷だ。

こんなことなので、父は母と会うこと自体がとても少なかったはずです。そして、父は母親が自分を捨てた生き方をしているという事をまったく理解していませんでした。ただ「仕事で大阪まで奉公に行ってるから、なかなか戻ってこれないんだよ。」とじいさんばあさんに説明されただけです。

母恋し、母恋し。されど会うもままならず。

そんな日々を過ごしていたに違いないのです。

そして育てるのは父にとっては祖父と祖母。孫が可愛くて、そしてしかも不憫でなりません。おそらくは甘やかして甘やかして、可愛い可愛いと育てられたに違いないのです。

しかし「母は働きに出ているだけ」というその場を取り繕うウソは、祖母の再婚話が出てきた時に明らかになります。

今度は大きい会社の社長さんです。どんな人だったのかは知るよしもないのですが、とにかく祖母は父のこともその再婚相手の社長さんには話していたようです。しかしそれでも父は引き取られるということはありませんでした。たぶん独身で未婚ということで通っていたから、子供があるということ自体を明かすことができないとか、そんなことになってしまったんだと思います。

結局、父ははっきりと、自分が捨てられたのだと知ります。この再婚がいつだったのかは知らないのですが、どちらにせよ辛い事には代わりはないでしょう。

とにかく昔の父の写真を見ると、父が結婚するまでの独身時代の写真は、とにかく笑っていません。笑顔の写真がなかった。口を固く閉じて真一文字、カメラをにらみつけているかのような写真ばかりでした。

よほど辛かったんだろうなぁと、そればかりを思います。

うーん。きりがいいので、とりあえずはここまで。続きはまた書きます。

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