父という人。[その0]
2005年12月18日 ●じぶんの心マップ近々、結婚しようと考えている。それについては細かく報告する気もないのだが、それに伴い、この数年で、「自分の心の中」という、旅する人は旅するが、気づけない人には永遠に未知の国である無限の大地をじっくり見て回ったことについて、書きたくなった。
特に、その心の旅の中でも、「父」という人の存在捉え直しがとても重要だったので、それをちょっと書いてみたい。父も亡くなって何年も経っており、多少のことを書いても、まぁいいだろうという気になったのだ。
親子関係というものについては、バリエーションも多く、いろいろと複雑な感情も入るので、多くを語ろうとしない人も多いものだが、実は、世の中の人間関係の感情問題の大半、80%以上を親子関係が創っていると考えても間違いではないほど、とても基本的かつ、重要な関係なのだと思う。
良い親子関係を築ければ、親、子、ともどもに成長し、良い人生を育んでいくことができるが、ほんの少し勘違いをしてしまうと、大きな苦しみばかりを生み出してしまう。
恋愛とか宗教の慈悲の心とか、なんだかんだあるけど、やっぱり根幹の根幹には「親子関係」があるんだよな。
で、なぜ、この親子関係というものが重要かというと、自分がまだ「言葉」も持っていない、感覚と感情だけで物事を判断した時に、うれしい思いや悲しい思い、苦しい思いなどをやりとりする関係だからだ。
言葉になる前の「感覚」で間違った捉え方とか狂った感覚とかが身に付いてしまうと、その「感覚」はその人に一生つきまとうことになる。その「感覚」を取り払うことこそが重要なのだけれど、それは自分の心を真正面から直視する気持ちがないと無理なのだ。
------
で、父のことを話す前にちょっと先に最近思ってることを書きます。
まず、「頑固親父」がいなくなった点について話したい。
頑固親父とは何か。これは、自分の経験と学習、知識と技術など、さまざまな人生の「自分作り」の過程の中で、確固たる人格を築いた一個の大人が、その膨大なる思索世界への信頼、つまり自分への信頼、「自信」を持って、子に自分の価値観を伝える、という事を意味します。
つまり、頑固親父には、絶対的な親の側の徹底した努力が必要なのです。
もう昔昔にテレビでやっていた「寺内貫太郎一家」に出てきた頑固親父、「寺内貫太郎」が、確か大工か何かの職人だったことは、その「長年の研鑽」を映像として象徴させるためにこそ設定された内容なわけですね。
単純に言うと、
●努力もせずにいばれるものか。
という当たり前のことが大前提にあるのです。
しかし、いまの世の中、自分が父親であるという、ただそれだけの理由で、えらそぶる、あるいは、我を通すのが良いのでは? とか考えてる人がいてます。
ダメです。
それは単なる「ワガママ」でしかありません。
そんなワガママがやりたいのなら、キチンと勉強してからにしなさい。
ということですね。
この「親のワガママ」と、「頑固親父」を混同してるバカが多い。なんなのだろうね。
寺内貫太郎は大工だから、積み重ねてコツコツやるという価値観を大事にしていて、その価値観に見合わない考え方が出てきたときに怒るわけです。そこには確かな価値観がある。
ところが、最近の親は、そういう価値観を自分の中に築き上げるということもしてないくせに、子供を自分の思いどおりに動かそうとしてたりする。
結局、「説明責任」ということがわかってないんだなって思う。誰かを叱るなら、「君のこういうところは、こういう価値観の下、間違っていると判断できる。だからそれはやめなさい。」と叱る理由を説明できなきゃだめ。
この理由説明ができずに叱るのは、
バカ
です。
これは、何をどう正当化しようが、バカでしかないんです。
感覚的に叱るとか、そういうのは本当にだめ。
まともな人間のすることではないですし、決して「頑固親父」でもありません。ワガママ勝手で、どうしようもないダメ大人です。
理由説明のない「強制」なんてのは明確に「暴力」ですからなぁ。
中身がからっぽで、キチンとした説明もできないのに、好き勝手する、なんていうのは社会の迷惑だし、暴力の極みなんですが、中身がからっぽの人間は、それが暴力であるということ自体に気づけない。
で、それが暴力であるということに気づくためには、「何事にもキチンとした説明があれば、納得できるのだ。」という幸せな体験をするしかない。
そのためには、結局、いろいろな事を、ひとつずつ「学習」していくしかないんですね。
たとえば、子供が思ったとおりの事をしてくれないから、「プイ」と横を向く。
これなんかは、「ネグレクト(無視)」という、超強力な、暴力そのものなんです。
で、私は子供のころ、これをけっこうやられた。
気に入らないことがあると、「何故気に入らないのか」とかをキチンと説明するのではなく、「プイ」と横を向く。
これは暴力なんですね。暴力なんです。それもそうとうひどい暴力なんだ。
でも、このひどさは、キチンとそれが本当にひどいことなんだということを、自ら学習しない限り理解できないんです。
で、こういう大事な基本がわかってない人間ほど、勉強もせずに中身がからっぽのまま、ただ家族の前でだけ、「えらそぶる」という行為をゆるしてもらっていて、そのからっぽさを、家族に穴埋めしてもらう、ということをします。
何が正しくて、何が間違っていて、世の中の法律はどのようにできあがっていて、宗教や多様な価値観がどのように世の中にあるのかを学ぶというような、そういう社会的学習をしない。
いや、せめて、そういうことを「わからない。」「しらない。」と事実を認めて、だから、何も言わないというスタンスでいてられたら別に問題はないんですがね。
学ばなくてもいい。せめて自分の無知を受け入れられれば、それでいい。
ところが、この自分の無知も受け入れず、そのくせ、勝手なワガママを「頑固親父」というような言葉で正当化してるってのが困りものです。
研鑽もしてないのにえらそぶるな、ということです。
せめて自分がワガママを言う時は「ワガママ言ってすまんが、これこれしてくれ」と言えばいいだけの話なんですがね。
親から、こういうマトモなコミュニケーションを取ってもらえなかった人間は、親の欠点をそのまま受け継いでしまって、こういうところでキチンと子供とコミュニケーションが取れなくなります。
このあたりはアダルトチルドレン関連の本を読めば出てくるでしょう。わかってる人はみんなわかってると思うけど。
(アダルトチルドレン関連の本は、みんな感銘を受けるのよなぁ。なんせ日本人の60%はアダルトチルドレンだという人もいるくらいで。この概念は、もっともっと広く多くの人に知ってもらいたい。でないと親の因果が子に報い、不幸は巡る糸車、てなことにしかならんから。こんな馬鹿馬鹿しいことはないのであります。)
この根幹理解なくして、親子関係もへったくれもないのよね。
まぁたいていの人間には、親との関係というのが言葉も持たなかった幼少のころにあって、それが「自分」を形作る、大きな足かせになってるということに、まずは気づくこと。
これが大事なんだと思うわけです。
で、私の父親は、もう典型的な「不幸な人」だったということです。
この項、しばらく続きます。
特に、その心の旅の中でも、「父」という人の存在捉え直しがとても重要だったので、それをちょっと書いてみたい。父も亡くなって何年も経っており、多少のことを書いても、まぁいいだろうという気になったのだ。
親子関係というものについては、バリエーションも多く、いろいろと複雑な感情も入るので、多くを語ろうとしない人も多いものだが、実は、世の中の人間関係の感情問題の大半、80%以上を親子関係が創っていると考えても間違いではないほど、とても基本的かつ、重要な関係なのだと思う。
良い親子関係を築ければ、親、子、ともどもに成長し、良い人生を育んでいくことができるが、ほんの少し勘違いをしてしまうと、大きな苦しみばかりを生み出してしまう。
恋愛とか宗教の慈悲の心とか、なんだかんだあるけど、やっぱり根幹の根幹には「親子関係」があるんだよな。
で、なぜ、この親子関係というものが重要かというと、自分がまだ「言葉」も持っていない、感覚と感情だけで物事を判断した時に、うれしい思いや悲しい思い、苦しい思いなどをやりとりする関係だからだ。
言葉になる前の「感覚」で間違った捉え方とか狂った感覚とかが身に付いてしまうと、その「感覚」はその人に一生つきまとうことになる。その「感覚」を取り払うことこそが重要なのだけれど、それは自分の心を真正面から直視する気持ちがないと無理なのだ。
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で、父のことを話す前にちょっと先に最近思ってることを書きます。
まず、「頑固親父」がいなくなった点について話したい。
頑固親父とは何か。これは、自分の経験と学習、知識と技術など、さまざまな人生の「自分作り」の過程の中で、確固たる人格を築いた一個の大人が、その膨大なる思索世界への信頼、つまり自分への信頼、「自信」を持って、子に自分の価値観を伝える、という事を意味します。
つまり、頑固親父には、絶対的な親の側の徹底した努力が必要なのです。
もう昔昔にテレビでやっていた「寺内貫太郎一家」に出てきた頑固親父、「寺内貫太郎」が、確か大工か何かの職人だったことは、その「長年の研鑽」を映像として象徴させるためにこそ設定された内容なわけですね。
単純に言うと、
●努力もせずにいばれるものか。
という当たり前のことが大前提にあるのです。
しかし、いまの世の中、自分が父親であるという、ただそれだけの理由で、えらそぶる、あるいは、我を通すのが良いのでは? とか考えてる人がいてます。
ダメです。
それは単なる「ワガママ」でしかありません。
そんなワガママがやりたいのなら、キチンと勉強してからにしなさい。
ということですね。
この「親のワガママ」と、「頑固親父」を混同してるバカが多い。なんなのだろうね。
寺内貫太郎は大工だから、積み重ねてコツコツやるという価値観を大事にしていて、その価値観に見合わない考え方が出てきたときに怒るわけです。そこには確かな価値観がある。
ところが、最近の親は、そういう価値観を自分の中に築き上げるということもしてないくせに、子供を自分の思いどおりに動かそうとしてたりする。
結局、「説明責任」ということがわかってないんだなって思う。誰かを叱るなら、「君のこういうところは、こういう価値観の下、間違っていると判断できる。だからそれはやめなさい。」と叱る理由を説明できなきゃだめ。
この理由説明ができずに叱るのは、
バカ
です。
これは、何をどう正当化しようが、バカでしかないんです。
感覚的に叱るとか、そういうのは本当にだめ。
まともな人間のすることではないですし、決して「頑固親父」でもありません。ワガママ勝手で、どうしようもないダメ大人です。
理由説明のない「強制」なんてのは明確に「暴力」ですからなぁ。
中身がからっぽで、キチンとした説明もできないのに、好き勝手する、なんていうのは社会の迷惑だし、暴力の極みなんですが、中身がからっぽの人間は、それが暴力であるということ自体に気づけない。
で、それが暴力であるということに気づくためには、「何事にもキチンとした説明があれば、納得できるのだ。」という幸せな体験をするしかない。
そのためには、結局、いろいろな事を、ひとつずつ「学習」していくしかないんですね。
たとえば、子供が思ったとおりの事をしてくれないから、「プイ」と横を向く。
これなんかは、「ネグレクト(無視)」という、超強力な、暴力そのものなんです。
で、私は子供のころ、これをけっこうやられた。
気に入らないことがあると、「何故気に入らないのか」とかをキチンと説明するのではなく、「プイ」と横を向く。
これは暴力なんですね。暴力なんです。それもそうとうひどい暴力なんだ。
でも、このひどさは、キチンとそれが本当にひどいことなんだということを、自ら学習しない限り理解できないんです。
で、こういう大事な基本がわかってない人間ほど、勉強もせずに中身がからっぽのまま、ただ家族の前でだけ、「えらそぶる」という行為をゆるしてもらっていて、そのからっぽさを、家族に穴埋めしてもらう、ということをします。
何が正しくて、何が間違っていて、世の中の法律はどのようにできあがっていて、宗教や多様な価値観がどのように世の中にあるのかを学ぶというような、そういう社会的学習をしない。
いや、せめて、そういうことを「わからない。」「しらない。」と事実を認めて、だから、何も言わないというスタンスでいてられたら別に問題はないんですがね。
学ばなくてもいい。せめて自分の無知を受け入れられれば、それでいい。
ところが、この自分の無知も受け入れず、そのくせ、勝手なワガママを「頑固親父」というような言葉で正当化してるってのが困りものです。
研鑽もしてないのにえらそぶるな、ということです。
せめて自分がワガママを言う時は「ワガママ言ってすまんが、これこれしてくれ」と言えばいいだけの話なんですがね。
親から、こういうマトモなコミュニケーションを取ってもらえなかった人間は、親の欠点をそのまま受け継いでしまって、こういうところでキチンと子供とコミュニケーションが取れなくなります。
このあたりはアダルトチルドレン関連の本を読めば出てくるでしょう。わかってる人はみんなわかってると思うけど。
(アダルトチルドレン関連の本は、みんな感銘を受けるのよなぁ。なんせ日本人の60%はアダルトチルドレンだという人もいるくらいで。この概念は、もっともっと広く多くの人に知ってもらいたい。でないと親の因果が子に報い、不幸は巡る糸車、てなことにしかならんから。こんな馬鹿馬鹿しいことはないのであります。)
この根幹理解なくして、親子関係もへったくれもないのよね。
まぁたいていの人間には、親との関係というのが言葉も持たなかった幼少のころにあって、それが「自分」を形作る、大きな足かせになってるということに、まずは気づくこと。
これが大事なんだと思うわけです。
で、私の父親は、もう典型的な「不幸な人」だったということです。
この項、しばらく続きます。
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