空に雲が浮かんでいます。
すごいと思いませんか?浮いてるんですよ。動いてるんですよ。
奇跡だと思う。

植物が花を咲かせます。
すごいと思いませんか? あんな小さなタネが花になるんですよ。
不思議とはこのことだと思う。

私は生きてます。
とんでもないと思いませんか? 意識を持って考えることができる。感情があって、涙したり笑ったりできる。
すごい以外に言える言葉がないです。

なんなんだ、この世は。とんでもない奇跡にあふれかえっているではないか。
すごい、すごい。
とんでもなくすごい。

そんな風に思いませんか?
僕はもう何年も前からずーーーーっとそう思ってる。

ウクレレをやって合奏して、その複数の人間がハーモニーを奏でられるという事実の美しさ。
なんという精緻さをこの世は持っていて、その精緻さを人類はちゃんと発見できているという感動。

だから、ちゃんと生きなくてはって思う。
せっかく生まれてきたのだから、ちゃんと一所懸命に生きなくてはって思う。

何が「一所懸命」なのかは、ひとりひとり違うんだろうけど、とにかく、「課題」はいつも自分の目の前に用意されていて、その問題は「解かれる」ためにそこにある。

でも、悲しいかな人間は、このありのままの事実を見ない。

雲は浮いていて当たり前だし、風があるから動くのだと思う。
花はそりゃタネをまいたら咲くだろうよって思う。
で、しまいにゃ、人間? 生きてて当然じゃん、とか思ったりする。
ひどいのになると「人生残りカスさ」と捨ててしまったようなことを言う。

この世の奇跡を感じていれば、基本的に宗教は不要だ。あんなものは、この奇跡を感じ取れない鈍感人間と、あまりに過酷な課題に迷ってしまった人のための杖にしかすぎない。

ありのままのこの世を直視すれば、不思議と奇跡のワンダーランドだと観念するしかないはずなのだ。

どこかのオッサンが座禅のままジャンプする姿を見て奇跡だ!と思ってしまった人は、よっぽど疲れていたんだろうね。かわいそうに。

日々毎日生きてると、そういう慣れきった感覚にもなるのかも知れない。奇跡をあたりまえとしか思えない感覚。そういう疲れ。
でも、そういう考え方そのものが、僕は大きな罪だと思う。生きているという奇跡に対する罪だ。

ありのままの、この世、こここそが天国である。
思い通りに生き、この世にたったひとりしかいない「自分」を生きないで、いったい何が「生きる」ことなのか、と思う。

自分という存在が、いまここにいて、その自分こそが、まず素晴らしい存在だということを、ゆったり、たっぷり味あわないで、いったい何の人生だろうか。

自分の中の未熟さや至らなさを、冷酷に自己判断して、魂を磨き、より良いステップへと足を進めようと思わなくて、人生の意味などないのだ。

身の回りの人に優しくし、愛情豊かに接するためには、まず、その自分自身が存在している喜び、奇跡をかみしめ、そしてありのままの、未熟で、未完成で、不必要に怒ったり悲しんだり落胆してしまう等身大を自分というものを、たとえ直視するのが「嫌」であっても厳しく直視し、誤りや過ちは正し、より良く生きていかなくて、何の人生だというのだろうか。

成長するためにこそ人は生まれ、苦しみや悲しみの課題を直視し、それを乗り越えることでより良き魂へと成長の階段を上っていくものなのだ。

実際に実行するのは簡単ではないが、そんな現実直視、自己認識こそが生きている意味なんじゃないかなぁと思うのだ。それができなければ、生きている価値なんてこれっぽっちもないよなぁ。実際。

悲しみや迷いや痛みや苦しみまでひっくるめて、全てはエクササイズなんだろう。この世は本当に良くできていると思う。

本当にこの世はすごいなぁ。感心する。うまく言えないけど。
この世界全体に対して、感謝するしかない。基本的には。

いやー、しかしワシ、何書いてるんだろう。でもなんか、急に書きたくなったのだ。
なんかずっと言いたかったことなのに、ずっとうまく言葉にならなかった。なんか今急に湧いてきちゃったよ。

ま、そんなことで。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索