今年は私は天中殺という奴である。

(大殺界ではない。大殺界って三年もあるもん。おかしいやん。算命占術は陰陽道のはず。陰陽道は物事には陰陽があるということですべては偶数で割り切れないとヘンなのに。脅す期間が長くなって儲かるという理屈としか思えない。)

なので、今年は自分のことより周り優先という気持ちでやってきた。いやまぁ、そんなことは出来はしないのだけども、我欲を抑えるということだね。

なので、自分の知り合い関係にも「本当にその人のためになる」と思われる忠告しかしなかった。

ありていに言えば、いままで「問題だよなー」と思いつつ口にしなかったことをはっきり伝えたということでもある。

そしたらまぁ、ものの見事に、知り合い三人に忠告したのだけれど、三人ともから、えらい強い拒否にあってる。

んー、まぁしゃあないか。

これは精神分析的に言えば防衛機制(defense mechanism)、要するに、自分の都合の悪いことになると拒絶する否認(denial)、葛藤・不安を退ける為に行う正当化=合理化(rationalization)に陥るという奴で、逆に言えば、あまりに的を射抜き過ぎてて、受け止めてもらえなかった、ということだろう。

反応がまた、まったく同じで「そういうこと言うから君はみんなから嫌われるんだ」ってもの。これって、拒絶・否認・正当化の常套パターンの言葉なんだなぁ、と良くわかった。みんな、ではなくあなたに嫌われてるだけ。で、嫌われてでも伝えるべき事があると思うから伝えているだけ、なのになぁと。

ちょっと話は外れるけど、いまの民主党の前原党首というのは、しょっちゅうアメリカに行ってるネオコン派で、ああいう人が民主党の党首になると、自民党も民主党もどっちもアメリカべったりになってしまってあまりよろしくない。

で、そういうことを良く分かってる副島隆彦が、もう二年も前にテレビの竹村健一の番組で前原氏と同席する機会があったんだそうです。楽屋に竹村健一もいて、志方なんとかという軍事評論家とかもいてる前で、「あなたは民主党という野党にいる立場なのだから、アメリカに追従する自民党の立場ではなく、追従はよくないという立場に立って自民党を批判せねばならんはずだ。そこはキチンと考えてくださいよ。いまのままでは、アメリカに取り込まれてしまう。」というような、まっとうな指摘をしたら、この前原氏の言葉が「あなたはそういうことを言うからみんなから嫌われるんですよ。」だったんだそうだ。

いずこも同じか。一番嫌な事を言われたら、受け入れるのではなく「僕は周りにあわせてるだけだ」と逃げるだけ。

ともあれ、この三人、指摘した問題そのものはそれぞれに全然別で、その問題に真剣に取り組めば、うんと心も軽く楽しく人生を生きられるはずなのに、その肝心のことをほったらかしにしてるという意味ではみんな同じなわけです。

不思議に思うのは、もうひとり問題指摘をした四人目の友人がいてるのだけれど、この男からは拒否を受けてない。で、実はこの「拒否しなかった男」が、社会的状況としてはいちばん問題が大きいはずなのだ。具体的な問題が山積みだし。

だから問題が表面化した時でないと、受け入れられないんだろうなぁと思う。早めに指摘しても、問題自体を認識できないんでしょうなぁ。認識する気がないって奴なんだろう。

三人とも僕にとっては大事な人なんだけど、その「問題点」を抱えているせいで、とにかく、この数年は話をしても、全然楽しくない。うまく言えないが、ようするに不平不満をグチグチと言われるだけという感じにしか感じないのです。

こういうのは「自己評価が低い」という奴で、基本的に、「まず自分を大事にする」ということが出来てないってことなんですな。自己評価が低いのは、いちばん、いろいろな心の病の原因になりやすい事柄なのだから、注意して欲しいって思う。

自己評価が低いから、トータルで見て「生きてるのがつまらない」という感じに思えるわけですね。わかりやすく書くなら「つまらないと思っているからつまらない」なわけですよ。あったりまえやん。おもしろいと思ったら面白いよ。当然でしょ。

この三人で言うと「得意先にはべったりくっついて、自分がおかしいと思うことでも受け入れなければならない」とか「世の中の決まり事には自分の実感を越えてでも従わなければならない」とか「危険なことをやって、それを乗り越えられるからこそ私には能力があるんだ」とかの、えらい苦しそうな「思いこみ」を、自分でかかえこんでたりする。そう感じられるわけです。

で、それは当人が勝手にそう考えてるだけで、そんなこと全然ない。自分を捨てたりダメにしたり、危険にさらしてまで優先しなければならない価値なんて、そんなもん、ない。あるわけがない。

人間は、ただ生きている、それだけで価値があるのだ。自分は自分というだけで素晴らしいのだ。当然でしょ、そんなこと。自分より上の価値観なんてないよ。ありえない。

だからこそ、自分の人生で、困ったこと、問題点、嫌なこととかがあったら、さっさと直視して問題の根っこを明確化して、それをすべて良い方に転化してしまえばいいのだ。

できてないなら、できてないと認める。それだけ。別にできてなくてもええやん。わかってないならわかってないと認める。別にわかってなくてもええやん。わかってもいないのにわかってるふりとかするから苦しくなるのにって思う。

ちゃうんかねぇ。なんか「俺は不幸だ」と思うこと自体が大切な価値観にでもなってるんじゃないかと思ってしまう。

いやまぁ、一昨年、私、けっこういろいろ落ち込みましてね悩んだからこそそう思えるようになってきたのかもしれないんだけど。

それらを考えると、その時期に読んだ、この「自分セラピー」という本との出会いは、けっこう大きかったなぁと思う。タイミングもあるから、人によっては全然役に立たないのかもしれないが、少なくとも、重要な「自己評価」を高める役には立つ。

やっぱり、誰とのつきあい方が一番重要かと言えば、それは「自分」ですよ。まず「自分」という人間を良く知って、その自分と取っ組み合いをする。それが一番の基本。

「受け入れがたい感情」が出てしまう「ダメな自分」もありのままの自分と受け入れてはじめて、「自分を愛する」ができるのだし、この「自分への深い愛」なくして近親者との愛情ある交流もできない。絶対に。

この本は、そういう気づきに向かうための、手順をうまく示してくれていたと思う。けっこう好きな本です。

ともあれ、忠告しても受けいれてもらえないので、ほっとくことにしている。問題そのものは解決されてないんだから、そのうち問題そのものが大きくなって四人目の男みたいに自覚せねば仕方なくなるか、あるいは自分で気づくか、どっちかするでしょ。

まぁそれはそれでいいや。僕は僕の幸せが優先だし。ただあんまり不幸な考え方には近づかないようにしようと思う。距離取るしかないよなー。

三人ともに、「●●でなければ幸せでない」という条件つき幸福論にはまってしまっているなと思う。それは「生きてるだけで幸せ」と思うようにしている僕には、うっとおしくて仕方ない。やめて欲しいよなー。近づかないでおこう。こればっかりはしょうがないんかなー。

そんなことをおもってます。

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