感じることが大切です。
2005年10月13日 ●じぶんの心マップ人間には、感じるという能力が備わっていて、これをどう扱うかで、人生は変わる。
基本的には感度をあげてやれば能力も幸せ度もあがるのだけど、物事はそう簡単でもない。
感じる能力が高いということは、喜びだけでなく、恥ずかしいと感じることや、心の痛みも敏感に感じるようになるわけで、自分の都合のいいほうだけを「選択して感じる」というわけにはいかない。残念ながら。
喜びをキチンと味わい、楽しむためには、恥ずかしい気持ちや嫌だなぁと感じる心もまた、自分の人生の一部として、しっかりと引き受けるしかないわけだ。
なので、この「嫌な感じは、嫌だなぁ」と、恥じ入る事を避けるとか、頭を打ったことを受け入れないとか、失敗したことを悔しく感じないとか、「意識的に嫌な感じは感じないようにする」てなことをしてると、感じる能力はいきおい下がる。
嫌なことを感じないということは、喜びも感じないということである。当然人生はつまらなくなる。当たり前の話だ。
悲しみを悲しく感じないようにすれば、当然喜びを嬉しく感じなくなるのである。
光があれば影がある。
当然のことなのだ。
真っ白な、夏の雲をスケッチするためには、影をこそていねいに観察して、描かなければならないのだ。そういうことだ。
恐ろしい事に、痛みを感じないようにしている人間は、当然ながら、他の人の心の痛みを「察する」という事もできない。人間関係が恐ろしく希薄になる。
希薄な関係ばかりになると、とても不安になって、家族や近親者や身近な人との深い関係に「頼る」ようになってしまう。そこにしか「自分」がないように思えるからだ。
でも、それは本来、自分が「感じない」ようにしているのが悪いのであって、いくら周りに手当してもらおうとしても、決して、絶対、どんなことがあろうと、永遠に、未来永劫、解決はしないのである。
痛い事を「痛い」と自分で感じること。
ここから逃げてる人間に未来なんかない。まったくない。ゼロである。
いや、それどころか、この「感じない病」は、まず周りを傷つける。痛みを感じないようにしているのだから、人を傷つけても、まーーーーったく平気になってしまう。
いくら「迷惑しているのだ」と伝えても、当人が「痛みを感じない」ようにしているのだから、話にならない。
で、ドンドン・バンバン傷つけまくりになる。
まぁ身近な人ほど傷つけられるわなぁ。興味を否定されたりとか、理不尽な言葉で否定されたりとか、そういうことが「普通」になってしまうのだね。
それもこれも、当人が「痛みを感じないように」しているのが問題なわけで。
感じないように生きている人間というのは、まさにゾンビで、これほど周りに迷惑な存在というものはない。
ところが、「感じないようにしている」人間は、この「感じないようにしていることそのものが、反社会的で、絶対に許されざること」であるということ自体がわかっておらん。
まぁわかりたくないんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけどなー。
官僚とか、実はその典型なんだよなー。「自分だけは傷つきたくない」と思うから、「自分で稼ぐのはしんどい。役人なら生活が保障される。」とかいう発想で役人になる。
まぁ、それはともあれ、「感じない」ようにしている人は、本当に諸悪の根源で、社会の迷惑で、人間のクズだと思うのですよ。生きてる意味ないやん。五体満足に生まれて来てるのに。
感じることは、生きていくことの基本中の基本だと思うので、ここだけは絶対に大切にしたいのであります。
ちゅうことで、いまごろになって夏ばてが来て、仕事へのやる気がでなくて困っております。
自分の悪いとこ、ダメなとこばっかり気にかかる。
でも、これをしっかり感じておかないと、次のステップに進めないので、ちょっとじっくり味わいつくそうと思うのであります。
嫌なこととか、ほんと、「味わってやるぞ」と思ってはじめて小さくなるものだしね。感じきって、味わい尽くせば、自分のものになって腹におさまる。
まず、それをしないとダメだよね、人間。
そう思うのであります。
はい。
基本的には感度をあげてやれば能力も幸せ度もあがるのだけど、物事はそう簡単でもない。
感じる能力が高いということは、喜びだけでなく、恥ずかしいと感じることや、心の痛みも敏感に感じるようになるわけで、自分の都合のいいほうだけを「選択して感じる」というわけにはいかない。残念ながら。
喜びをキチンと味わい、楽しむためには、恥ずかしい気持ちや嫌だなぁと感じる心もまた、自分の人生の一部として、しっかりと引き受けるしかないわけだ。
なので、この「嫌な感じは、嫌だなぁ」と、恥じ入る事を避けるとか、頭を打ったことを受け入れないとか、失敗したことを悔しく感じないとか、「意識的に嫌な感じは感じないようにする」てなことをしてると、感じる能力はいきおい下がる。
嫌なことを感じないということは、喜びも感じないということである。当然人生はつまらなくなる。当たり前の話だ。
悲しみを悲しく感じないようにすれば、当然喜びを嬉しく感じなくなるのである。
光があれば影がある。
当然のことなのだ。
真っ白な、夏の雲をスケッチするためには、影をこそていねいに観察して、描かなければならないのだ。そういうことだ。
恐ろしい事に、痛みを感じないようにしている人間は、当然ながら、他の人の心の痛みを「察する」という事もできない。人間関係が恐ろしく希薄になる。
希薄な関係ばかりになると、とても不安になって、家族や近親者や身近な人との深い関係に「頼る」ようになってしまう。そこにしか「自分」がないように思えるからだ。
でも、それは本来、自分が「感じない」ようにしているのが悪いのであって、いくら周りに手当してもらおうとしても、決して、絶対、どんなことがあろうと、永遠に、未来永劫、解決はしないのである。
痛い事を「痛い」と自分で感じること。
ここから逃げてる人間に未来なんかない。まったくない。ゼロである。
いや、それどころか、この「感じない病」は、まず周りを傷つける。痛みを感じないようにしているのだから、人を傷つけても、まーーーーったく平気になってしまう。
いくら「迷惑しているのだ」と伝えても、当人が「痛みを感じない」ようにしているのだから、話にならない。
で、ドンドン・バンバン傷つけまくりになる。
まぁ身近な人ほど傷つけられるわなぁ。興味を否定されたりとか、理不尽な言葉で否定されたりとか、そういうことが「普通」になってしまうのだね。
それもこれも、当人が「痛みを感じないように」しているのが問題なわけで。
感じないように生きている人間というのは、まさにゾンビで、これほど周りに迷惑な存在というものはない。
ところが、「感じないようにしている」人間は、この「感じないようにしていることそのものが、反社会的で、絶対に許されざること」であるということ自体がわかっておらん。
まぁわかりたくないんだから、しょうがないと言えばしょうがないんだろうけどなー。
官僚とか、実はその典型なんだよなー。「自分だけは傷つきたくない」と思うから、「自分で稼ぐのはしんどい。役人なら生活が保障される。」とかいう発想で役人になる。
まぁ、それはともあれ、「感じない」ようにしている人は、本当に諸悪の根源で、社会の迷惑で、人間のクズだと思うのですよ。生きてる意味ないやん。五体満足に生まれて来てるのに。
感じることは、生きていくことの基本中の基本だと思うので、ここだけは絶対に大切にしたいのであります。
ちゅうことで、いまごろになって夏ばてが来て、仕事へのやる気がでなくて困っております。
自分の悪いとこ、ダメなとこばっかり気にかかる。
でも、これをしっかり感じておかないと、次のステップに進めないので、ちょっとじっくり味わいつくそうと思うのであります。
嫌なこととか、ほんと、「味わってやるぞ」と思ってはじめて小さくなるものだしね。感じきって、味わい尽くせば、自分のものになって腹におさまる。
まず、それをしないとダメだよね、人間。
そう思うのであります。
はい。
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