私はアダルトチルドレン。
2005年8月1日 ●じぶんの心マップアダルトチルドレンという概念がありまして。人によっては、「日本人の60%くらいはアダルトチルドレンだ」と言ってる人もいてるんですが、そうだなぁ、そのくらいいてるかもなぁって思う。
これねぇ、正式な病名でもなんでもないんだよね。ただ、自分の心の状態とか感情的な反応のクセとかを自覚するために、実に最適な概念で、自分の生きていく上での態度を修正するのにとても役立つ。
一般論で申し訳ないけれど、アル中であるとかバクチ狂いというのは、「依存症」であって、自分の人生を自分でキチンとコントロールする意志に欠けているところがあるわけです。
で、この依存症の親に育てられた子供がアダルトチルドレンになることが多い。親の依存症がなんらかの形で子供に受け継がれてしまうんですな。
でも、まだ、酒とかバクチなら、「俺はアル中だ」とか自覚しやすくてマシかなぁとか思う。
やっかいなのは「共依存」って言って、人間関係に依存してる場合。これって、当人が自分で「俺は依存症だ」と自覚できない場合が多いから困る。
私は基本的にアダルトチルドレンだったと思うのですよ。まぁいろいろ症状はありましたが、私の場合はまともな恋愛関係などが結べないというようなものだったと思う。
思う、と書いたのは、それが基本的には「直った」からです。
これねぇ、「アダルトチルドレン」って概念がありがたいのは、「あ、俺ってアダルトチルドレンかも」という自覚さえできれば、あとはそう無理せず快方に向かいやすいってのがあるんですよ。
特に男の場合は。
私の場合は父親がバクチ依存症だったので、競馬場へ連れられて行って、目の前でレースに夢中になって私がいるにも関わらず、完全な無視(ネグレクトと言って、純粋に児童虐待のひとつです。子供に「無視」とかの態度を取る親はそれが「虐待なのだ」と自覚して欲しいですな。)されたことがきっかけになってます。
親が子供を無視して「ふん」とか言ったりするのって、「よくあること」とか思いがちですけど、そんなことはしてはいけないのですよ。とくに二三歳の小さい子の場合は。そういうことが、ものすごいトラウマになって、子供の生きる力を失わせることになるし、そういう仕打ちをされた子は、大人になって、また同じ仕打ちを子供にすることになりますから。
で、この依存症っていうのは、いくらでも断ち切ることのできるものなんですね。とくに共依存みたいに人間関係への依存の場合は「意志」の力でどうにでもなる。薬物依存みたいに禁断症状とかないし。単なる「感情のクセ」みたいなもんだから。
ところが、依存症になってる人は、ここのところを勘違いするのよなー。たとえば突発的にわき起こる「感情」などを「自分の個性だからどうしようもない」と自己規定してしまっていたりする。
突発的にわき起こる「激情」とか「劣情」みたいな感情って、たいていは、その、子供のころの「悲しい出来事」が、「言語化すらされずに気分のまま残っている」というだけのことが多い。
親からネグレクトにせよ、何かの強制にせよ、虐待に近いことをされると子供は、「この嫌なことも私自身に必要なことなんだ」みたいな、無理な合理化をしてしまいがちなんですね。
なんでかというと、子供は親の言うことを聞くしかないから。
親は正しいのだ、という前提にしておかないと、生きていけないからなんです。
これが、激情や劣情のようなものを「自分らしさの本質」と読み間違えてしまう原理・構造なわけです。
いわく、
「冷静に論理的に考えるのなんてロボットや機械みたい。感情豊かに生きるのが人間的だ」
という言い方になるんです。
でも、激情や劣情はダメだよ。
それ以前に、
「冷静に論理的に考えられないなんて動物みたいで野蛮。理性で自分をコントロールできることこそが人間的だ」
という考え方にこそ注目すべきなんだね。これは。
ロボットなんて、もともと感情なんか持ってませんし、生き物でもないですから。最近はICチップみたいなものにプログラムを書き込んで動作させられるから、つい機械と人間を比べてしまうけど、機械は生き物ですらないし、そんなものと比べるほうがどうかしてる。
そうではなくて、犬畜生ではないのだから、論理的に整然と物事を考えられる自分こそが、理性のある「人間的態度なのだ」と自覚しなくちゃいけません。
そういうことなので、依存症の人間はよく「だってしょうがないんだ」とか言って自分の内面の激情みたいなものを「個性」として肯定しようとしたりするんだけど、そんなもんは嘘っぱちだよ。偽物。そんな感情が「幸せ」であるはずないんだから、そんなものは「個性」とか思わずに、ただしく「病気(あるいは病気みたいなもの)」と現実認識すべきなんですな。
その認識さえできたら、こんなもん一発で治る。
つまんないもんです。
「俺の意識の手綱は俺が握る、感情に売り渡したりしないぞ。」と決心するだけのことだから。
カーンタン。
で、この「手綱を自分で理性的に持っておくぞ」という意識付けに「アダルトチルドレン」という概念が非常に役立つということなわけです。「私はアダルトチルドレンだ」と自覚すると、まぁおおむね、激情に左右されたりはしなくなります。ほんと「自覚」するだけで、全然効果が違うわけです。
さすがは、虐げられた子供たちのカウンセリングなどを担当する「現場」から出てきた概念だ、実用的だなぁと思う。
でも、この簡単なことを、できないのが依存症なんだよなぁ。
わかってない人はいつまでも「激情」を「自分らしさの象徴」と勘違いしたまま、後生大事に、そういう理不尽さを身の回りにまき散らして、「迷惑な存在」になってる。
いくら意を尽くして、論理的に説得してもダメ。本当に迷惑。だって論理的な考え方が通用しないんだもん。まぁ、バクチ狂いの人とかアル中の人とかみんなそうだもんね。同じ事なのか、しょうがねーなー、といえばそれだけのことなんだけど。
でも、最悪なのは、「どうしようもないんだ」とか「しかたがないんだ」とか言ってる当人自身も陰々滅々な気分であってたりするわけで。
そんなに不幸なら、さっさと変な激情とおさらばしろってーの。とか思うんだけどねー。自分で不幸がってるだけだもん、そんなの。意味ない。全然。
つまらない。
こんな人生の無駄遣いもいいところです。
こういう「コントロール不能な感情」を、「個性」と見てしまうと、それは「直せないもの」になっちゃうんですよね。それだけのことなんだ。
そうせずに、あえてそういう感情を「ビョーキ」(あえてカタカナで書く。身体的な機能不全とはちょっと違うし。)ととらえて始めて、「直す」こともできるんだよねー。
ここがけっこう肝心な事だと思う。
知り合い何人かに、そういう人がいてるので、あえて書きたかったですね。
うむ。
これねぇ、正式な病名でもなんでもないんだよね。ただ、自分の心の状態とか感情的な反応のクセとかを自覚するために、実に最適な概念で、自分の生きていく上での態度を修正するのにとても役立つ。
一般論で申し訳ないけれど、アル中であるとかバクチ狂いというのは、「依存症」であって、自分の人生を自分でキチンとコントロールする意志に欠けているところがあるわけです。
で、この依存症の親に育てられた子供がアダルトチルドレンになることが多い。親の依存症がなんらかの形で子供に受け継がれてしまうんですな。
でも、まだ、酒とかバクチなら、「俺はアル中だ」とか自覚しやすくてマシかなぁとか思う。
やっかいなのは「共依存」って言って、人間関係に依存してる場合。これって、当人が自分で「俺は依存症だ」と自覚できない場合が多いから困る。
私は基本的にアダルトチルドレンだったと思うのですよ。まぁいろいろ症状はありましたが、私の場合はまともな恋愛関係などが結べないというようなものだったと思う。
思う、と書いたのは、それが基本的には「直った」からです。
これねぇ、「アダルトチルドレン」って概念がありがたいのは、「あ、俺ってアダルトチルドレンかも」という自覚さえできれば、あとはそう無理せず快方に向かいやすいってのがあるんですよ。
特に男の場合は。
私の場合は父親がバクチ依存症だったので、競馬場へ連れられて行って、目の前でレースに夢中になって私がいるにも関わらず、完全な無視(ネグレクトと言って、純粋に児童虐待のひとつです。子供に「無視」とかの態度を取る親はそれが「虐待なのだ」と自覚して欲しいですな。)されたことがきっかけになってます。
親が子供を無視して「ふん」とか言ったりするのって、「よくあること」とか思いがちですけど、そんなことはしてはいけないのですよ。とくに二三歳の小さい子の場合は。そういうことが、ものすごいトラウマになって、子供の生きる力を失わせることになるし、そういう仕打ちをされた子は、大人になって、また同じ仕打ちを子供にすることになりますから。
で、この依存症っていうのは、いくらでも断ち切ることのできるものなんですね。とくに共依存みたいに人間関係への依存の場合は「意志」の力でどうにでもなる。薬物依存みたいに禁断症状とかないし。単なる「感情のクセ」みたいなもんだから。
ところが、依存症になってる人は、ここのところを勘違いするのよなー。たとえば突発的にわき起こる「感情」などを「自分の個性だからどうしようもない」と自己規定してしまっていたりする。
突発的にわき起こる「激情」とか「劣情」みたいな感情って、たいていは、その、子供のころの「悲しい出来事」が、「言語化すらされずに気分のまま残っている」というだけのことが多い。
親からネグレクトにせよ、何かの強制にせよ、虐待に近いことをされると子供は、「この嫌なことも私自身に必要なことなんだ」みたいな、無理な合理化をしてしまいがちなんですね。
なんでかというと、子供は親の言うことを聞くしかないから。
親は正しいのだ、という前提にしておかないと、生きていけないからなんです。
これが、激情や劣情のようなものを「自分らしさの本質」と読み間違えてしまう原理・構造なわけです。
いわく、
「冷静に論理的に考えるのなんてロボットや機械みたい。感情豊かに生きるのが人間的だ」
という言い方になるんです。
でも、激情や劣情はダメだよ。
それ以前に、
「冷静に論理的に考えられないなんて動物みたいで野蛮。理性で自分をコントロールできることこそが人間的だ」
という考え方にこそ注目すべきなんだね。これは。
ロボットなんて、もともと感情なんか持ってませんし、生き物でもないですから。最近はICチップみたいなものにプログラムを書き込んで動作させられるから、つい機械と人間を比べてしまうけど、機械は生き物ですらないし、そんなものと比べるほうがどうかしてる。
そうではなくて、犬畜生ではないのだから、論理的に整然と物事を考えられる自分こそが、理性のある「人間的態度なのだ」と自覚しなくちゃいけません。
そういうことなので、依存症の人間はよく「だってしょうがないんだ」とか言って自分の内面の激情みたいなものを「個性」として肯定しようとしたりするんだけど、そんなもんは嘘っぱちだよ。偽物。そんな感情が「幸せ」であるはずないんだから、そんなものは「個性」とか思わずに、ただしく「病気(あるいは病気みたいなもの)」と現実認識すべきなんですな。
その認識さえできたら、こんなもん一発で治る。
つまんないもんです。
「俺の意識の手綱は俺が握る、感情に売り渡したりしないぞ。」と決心するだけのことだから。
カーンタン。
で、この「手綱を自分で理性的に持っておくぞ」という意識付けに「アダルトチルドレン」という概念が非常に役立つということなわけです。「私はアダルトチルドレンだ」と自覚すると、まぁおおむね、激情に左右されたりはしなくなります。ほんと「自覚」するだけで、全然効果が違うわけです。
さすがは、虐げられた子供たちのカウンセリングなどを担当する「現場」から出てきた概念だ、実用的だなぁと思う。
でも、この簡単なことを、できないのが依存症なんだよなぁ。
わかってない人はいつまでも「激情」を「自分らしさの象徴」と勘違いしたまま、後生大事に、そういう理不尽さを身の回りにまき散らして、「迷惑な存在」になってる。
いくら意を尽くして、論理的に説得してもダメ。本当に迷惑。だって論理的な考え方が通用しないんだもん。まぁ、バクチ狂いの人とかアル中の人とかみんなそうだもんね。同じ事なのか、しょうがねーなー、といえばそれだけのことなんだけど。
でも、最悪なのは、「どうしようもないんだ」とか「しかたがないんだ」とか言ってる当人自身も陰々滅々な気分であってたりするわけで。
そんなに不幸なら、さっさと変な激情とおさらばしろってーの。とか思うんだけどねー。自分で不幸がってるだけだもん、そんなの。意味ない。全然。
つまらない。
こんな人生の無駄遣いもいいところです。
こういう「コントロール不能な感情」を、「個性」と見てしまうと、それは「直せないもの」になっちゃうんですよね。それだけのことなんだ。
そうせずに、あえてそういう感情を「ビョーキ」(あえてカタカナで書く。身体的な機能不全とはちょっと違うし。)ととらえて始めて、「直す」こともできるんだよねー。
ここがけっこう肝心な事だと思う。
知り合い何人かに、そういう人がいてるので、あえて書きたかったですね。
うむ。
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