「ああ、なるほど」と思うから、勉強は楽しい。
2005年1月29日 ●じぶんの心マップ今年は阪神大震災から10年。
震災の日の日記にも書いたけど、大地震という人の手ではどうしようもない出来事に遭遇して、考え方や生き方は大きく変わったように思う。
その中でも、やっぱり一番大きいのは「勉強しなくちゃいけない」っていうことだった。
最初は「他の国から見て日本という国がどう見えるのか」というような発想だったけれど、たとえば英語ひとつ学んでみても、ひとつの単語の裏には日本とは異なる異質な文化があって、その文化を学ばない限り、言葉の意味がわからないというようなことが山のようにある。
英語なんてとくにそうだ。辞書を見て「日本語で●●は英語で○○」と単純にあてはめてそれでよしなどと思っていたら、ちょー恥ずかしいことになる。全然通じないどころか正反対になってしまうなんてことも多い。
結局、英語を学ぶというのは、相手の国の文化を知るということで、それは日本の文化とはまるで違うのだということを知ることだから、「日本語の●●は●●であって英語の○○とは似ているようでまったく違う」ということを学ぶ過程そのものだ、と言える。
基本的には「学ぶ」ということは、そういうことなんだよなぁとつくづく思うのだ。翻訳不能と知ることが相手のことを良く知るために必要というか、そういう矛盾があるってことですね。
でも、大切なのは、相手の文化を知れば「ああ、なるほど」とわかることはあるってことなわけです。
「ああ、そういうことやったんかい。」と納得することですね。言葉はわからなくても、この「ああ、そういうことか」というのはあるのですなぁ。
結局、これが楽しいのだと思う。
英語を学ぶことが大切なのではなくて、この「ああ、なるほど」とわかる感覚こそが大切で、この楽しさがあるからこそ、勉強は楽しいのだと思うのである。
この十年につくづく実感したことは、それだ。
「ああ、なるほど」と実感することは楽しい。
心から楽しい。
とくに特定のジャンルの本を数冊、できれば十冊くらい、入門編から一般書あたりまでをザザザっと読んでしまったりすると、複数の知識が、ある特定の一冊の本ですべて「ああ、なるほど」とわからせてくれる本に出合えたりする快感は最上だ。
この時の快感は実に大きい。
いままでわけも分からず、闇雲に読んでいただけの知識が、その「ああ、なるほど」という解説ひとつで、一気にすべてつながって納得できるような快感である。
これは実に楽しいし、気持ちいい。
学習するということの基本的な楽しさは、この「ああ、なるほど」という快感なのだと思う。
ひとつの言葉の意味を知るのではなく、背景全体が見える快感というか。そういう感覚ですね。
この快感を知れば、もっと「ああ、なるほど」という喜びを知りたいなぁという気持ちになるものなのです。
で、それがあれば勉強はどんどん続くと思うのですよ。
まぁ、仕事が忙しいとなかなか勉強もできないけど、基本はそういうことだよなぁと思います。
学習すれば考え方も変わるし生き方も変わるけど、この「ああ、なるほど」と感じる感じ方は変わらないなぁ。
たぶん、これは信じて良い感覚でしょう。
人間の持つ感覚の中でも、たぶんとても大事で最優先にするべき感覚だろうと思う。
人間、年齢を重ねるごとに思想も考え方もいろいろ変わるけれど、それでもやっぱり「ああ、なるほどなぁ」という感じ方は変わらない。
右や左や戦争賛成や反対や、考え方は変わっても、親子兄弟の関係は変わらないというのと同じです。
そのくらい「ああ、なるほど」という感覚は大切なものだと思います。
しかしながら。
この「ああ、なるほどなぁ」という感じ方というのは、キチンと学習していかない限り感じ取れない「感覚」なんでしょうね。
だから「ああ、なるほどなぁ」という喜び自体を、あまり感じずに生きてきてしまった人も、それなりにたくさんいてると思うのですよ。
それがやっかいだなぁと思うのです。
たとえば、「●●は○○ということになっている」という英語と日本語の割り当てだけで納得してる人ですね。そういう人のほうが多いし、当たり前でしょう。
でもなぁ、それじゃ勉強はどんどんつまらなくなるのよなぁ。何より「ああ、なるほど」という最上の快感は得られないんですよねぇ。
この数年で、いちばんやっかいだなぁと思ってきたのは、そういうことですね。
こればっかりは自分で学習しないと味わえないもんなぁ。
しょうがないと言えばしょうがないけど。
ためいきがでます。
震災の日の日記にも書いたけど、大地震という人の手ではどうしようもない出来事に遭遇して、考え方や生き方は大きく変わったように思う。
その中でも、やっぱり一番大きいのは「勉強しなくちゃいけない」っていうことだった。
最初は「他の国から見て日本という国がどう見えるのか」というような発想だったけれど、たとえば英語ひとつ学んでみても、ひとつの単語の裏には日本とは異なる異質な文化があって、その文化を学ばない限り、言葉の意味がわからないというようなことが山のようにある。
英語なんてとくにそうだ。辞書を見て「日本語で●●は英語で○○」と単純にあてはめてそれでよしなどと思っていたら、ちょー恥ずかしいことになる。全然通じないどころか正反対になってしまうなんてことも多い。
結局、英語を学ぶというのは、相手の国の文化を知るということで、それは日本の文化とはまるで違うのだということを知ることだから、「日本語の●●は●●であって英語の○○とは似ているようでまったく違う」ということを学ぶ過程そのものだ、と言える。
基本的には「学ぶ」ということは、そういうことなんだよなぁとつくづく思うのだ。翻訳不能と知ることが相手のことを良く知るために必要というか、そういう矛盾があるってことですね。
でも、大切なのは、相手の文化を知れば「ああ、なるほど」とわかることはあるってことなわけです。
「ああ、そういうことやったんかい。」と納得することですね。言葉はわからなくても、この「ああ、そういうことか」というのはあるのですなぁ。
結局、これが楽しいのだと思う。
英語を学ぶことが大切なのではなくて、この「ああ、なるほど」とわかる感覚こそが大切で、この楽しさがあるからこそ、勉強は楽しいのだと思うのである。
この十年につくづく実感したことは、それだ。
「ああ、なるほど」と実感することは楽しい。
心から楽しい。
とくに特定のジャンルの本を数冊、できれば十冊くらい、入門編から一般書あたりまでをザザザっと読んでしまったりすると、複数の知識が、ある特定の一冊の本ですべて「ああ、なるほど」とわからせてくれる本に出合えたりする快感は最上だ。
この時の快感は実に大きい。
いままでわけも分からず、闇雲に読んでいただけの知識が、その「ああ、なるほど」という解説ひとつで、一気にすべてつながって納得できるような快感である。
これは実に楽しいし、気持ちいい。
学習するということの基本的な楽しさは、この「ああ、なるほど」という快感なのだと思う。
ひとつの言葉の意味を知るのではなく、背景全体が見える快感というか。そういう感覚ですね。
この快感を知れば、もっと「ああ、なるほど」という喜びを知りたいなぁという気持ちになるものなのです。
で、それがあれば勉強はどんどん続くと思うのですよ。
まぁ、仕事が忙しいとなかなか勉強もできないけど、基本はそういうことだよなぁと思います。
学習すれば考え方も変わるし生き方も変わるけど、この「ああ、なるほど」と感じる感じ方は変わらないなぁ。
たぶん、これは信じて良い感覚でしょう。
人間の持つ感覚の中でも、たぶんとても大事で最優先にするべき感覚だろうと思う。
人間、年齢を重ねるごとに思想も考え方もいろいろ変わるけれど、それでもやっぱり「ああ、なるほどなぁ」という感じ方は変わらない。
右や左や戦争賛成や反対や、考え方は変わっても、親子兄弟の関係は変わらないというのと同じです。
そのくらい「ああ、なるほど」という感覚は大切なものだと思います。
しかしながら。
この「ああ、なるほどなぁ」という感じ方というのは、キチンと学習していかない限り感じ取れない「感覚」なんでしょうね。
だから「ああ、なるほどなぁ」という喜び自体を、あまり感じずに生きてきてしまった人も、それなりにたくさんいてると思うのですよ。
それがやっかいだなぁと思うのです。
たとえば、「●●は○○ということになっている」という英語と日本語の割り当てだけで納得してる人ですね。そういう人のほうが多いし、当たり前でしょう。
でもなぁ、それじゃ勉強はどんどんつまらなくなるのよなぁ。何より「ああ、なるほど」という最上の快感は得られないんですよねぇ。
この数年で、いちばんやっかいだなぁと思ってきたのは、そういうことですね。
こればっかりは自分で学習しないと味わえないもんなぁ。
しょうがないと言えばしょうがないけど。
ためいきがでます。
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