神は理不尽である。

10年前の阪神大震災の時にそう感じた。

人間が積み重ねてきたものなど、一瞬のうちに葬り去ってしまえるのだ。泣き叫ぼうが、すねて無視しようが、自分をごまかして妄想にひたろうが、自然の驚異というすざまじいまでの力には人間はまったくの無力である。

まず、そういう現実認識があった。

阪神大震災の時、日本の政府は、ごく普通の一般市民を守ることもできなかった。海外から飛んできたNGOの救助犬のほうがはるかに役に立っていたし、人の命を救っていたのではないか。確か政府の担当大臣が現地に着くより救助犬のほうが早かったはずだ。

なので「日本の政治体制は遅れているのではないか」という気持ちが強く出た。そしてそれは、私の命を救ってくれないくらいにダメダメなのではないかと思った。

だから、この大地震を海外のメディアはどう報道しているのかが気になった。大まじめなメディアではない。日本で言えば三流の大衆紙などでの、口汚い評論家の意見などが知りたかったのだ。

なので35才だったが、そこから英語の勉強をはじめた。「Itの複数形はIt’s」というレベルだったし、lとrの音は聞き分けることも発音することもできなかった。ruler(ルーラー。定規のこと。)を聞いても聞き取れないし、ましてや口真似することすら無理だった。発音記号と発音のCDを使って口を動かしまくって、何時間もかかって、やっとruler一単語が発音できた。

異文化というのは、そのくらい遠い文化なのだとわかった。

そんなこんなをして、世界の側から見た日本、外から見た日本についてずーっと考えてきた十年だったみたいに思う。

で、結局、この十年に思ったことは、日本人は「神は理不尽である」という厳正なる事実さえ受け取れず、現実を曲げて妄想するることくらいしかできない民族なんだということだった。

海外の宗教、とくに一神教の多くは神は理不尽であるということを基本的には受け入れている。

十年前の一月十七日に神戸の道路はなんとか知り合いを救いたいという人であふれていたが、そんな車の群れに遮られて、緊急車両さえ移動できない状態だった。「私権の制限」を含む緊急時の法令が定まっていなかったからだ。これだけでも我々は大きく反省すべきことなのだ。

しかし実際の「私権の制限」を含む法律は、我々が阪神大震災で学んだことを基準にして立法はされず、イラクとアメリカのもめごとにまきこまれる形で成立してしまった。
なんと情けないことであるか。

大切なのは、我々の命である。
よその国のことなど知らない。

我々の命をいかにして守るかという論点から、論議されるべきだったはずだ。
しかし、そんな論議はされない。テレビにそんな論点は紹介されない。最初から排除されている。行ったこともない国の動向やら、戦争を仕掛けた国がどうやらとかまびすしい。

そんなことどうでもええやんけ。

それより「私権の制限」の必要性を我々がもっとキチンと勉強すべきやったん違うんか。法律って何や? 国って何? 我々は民主主義というものを正しく理解しているのか。いや、それよりも「みんしゅしゅぎ」でいいのか?
そんな、あんなこんなや、そんなこんなを、もっと自分の身近なところから考えなアカンの違うんか。

考えもしないから、よくわかってる他国のええようにされてるだけや。

つくづくそう思う。

我々国民がバカなのだ。とにかく、それが何よりの問題なのだと言うのが、この十年の結論だ。
他に言うことはない。

それでも、と思うのだ。
われわれはまだまだ賢くなれるのではないかと。
せめて自分たちのことを自分たちでキチンと考えられる人間になっていけるのではないかと。

そしてそれは別によその国のことを考えることではないと思う。

まず自分だ。
自分の頭の中だ。
理不尽な現実を真正面から受け止められる知力と体力を身につけることだと思う。

そうなるのだ。

すくなくとも私はそうなる。

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