信長の呪い―かくて、近代日本は生まれた
2005年1月2日 読書
ISBN:4334005179 新書 小室 直樹 光文社 1992/01 ¥805
この本、売ってるのかなぁ。いまはもうないと思う。
入手困難なんよな。
これをして「トンデモ本だ」と思ってる人が知り合いにいてるので、簡単に解説だけ書いておこうと思った。
この本は信長本なわけですが、信長の話はまぁいいのです。
それよりも、日本の歴史家がいかに「ええかげん」であるかが、この本を読んではっきりわかったというのが一番大きいんですな。
小室さんはアメリカまで留学して学問の基礎から学んだ人ですよ。ほんまもんの博士であって、トンデモ本なんか書く人ではない。なによりこの人はどの本一冊取っても、「学者」という枠からはずれたことは書かない。
(その外れていないという点で問題があることはある。それと学者の立場を離れて個人的意見を述べることもある。それもちょっと困る。でも概略すごい人です。)
信長と言えば「桶狭間の戦い」なわけですよ。
常識的に。
それはみんなそう思ってたし、山岡壮八の小説だってそうなってた。
で、みんな「狭間の戦い」と思ってたわけですよ、この本が出るまで。「はざま」ね、「はざま」。
みんな谷間で休んでた今川義元が織田信長の急襲にやられたんだと思ってたわけ。いまだにそう思ってる人は多いのよ。
でもね、もっとも歴史的事実に関して正確だと言われている「信長公記」(信長と同時代の太田牛一が書いた歴史書。信長に関する史実はこの本を頼りに推理するのが定番になっている。)の「読み方」自体がみんなええかげんやんけ、と暴いたのが小室さんなわけです。
だって、「信長公記」には「桶狭間」なんて一言も出てこないんだから。
出てくるのは「おけはざまやま」です。
「やま」なの、「やま」。
どこが「はざま」やねん、ちゅう話ですわな。
それも「一気にかけあがり」だったかなんだか、そういうことが書いてあるわけよ。どこをどう読んでも「谷」とか「はざま」には読めない。山を駆け上って攻めてるのよ。
そういう指摘を小室さんはしたわけです。
歴史家とか信長研究家とか、そういう人が偉そうに「推理」して、あてずっぽうで「おけはざまで信長が勝ったのは暑い日だから敵側が小手や具足を外していたからだ」とかなんとか、もう好き勝手言ってる横から、小室さん、ひょひょいと出てきて、一番学術的に信頼性の高い資料をじっくり読んで、「これは狭間ではない。山だ。」と指摘したのですよ。
たぶんね、みんな「はざま」という言葉と、義経のひよどり越えのイメージがあって、「谷間」と思っちゃったわけよ。
学者として実に正しい指摘なわけですよ。歴史学というのは、要するに資料読み学なわけですから。その基本の基本をピシッと筋を通して貫いただけなの。
で、その基本の基本をピシっと貫いただけで「ということになっている」というイメージだけ雰囲気だけの世界を完全にぶち壊してしまったわけです。
ということで、この後に緒方直人主演でNHKでテレビ化された織田信長では、この「やま」説を採用しておりました。
ま、誰もグゥの音も出ないわけですよ。これは。ようするにみんな基本資料もちゃんと読まずに、自分の思い込みだけで「語って」いたわけだから。
アホやん、そんなん。
山岡壮八もまぁアホですわな。でもまぁ、こらしゃーない。小説家やねんし。話をドラマチックにわかりやすくするなら、ひよどり超え風にした方が楽やし。
司馬遼太郎の「国盗り物語」も同じレベルの描写だったと記憶してます。
ま、小説家ですから。
誰も資料すらちゃんと読んでなかったというのが実際のところなんよな。
で、だ。
この本を読んだ時は「うわっ、資料読むとかキチンとやらなアカンよな」ということを学んだだけだったわけですが、その後、さまざまな勉強をしまして、この「資料をキチンと読み込む」ということがいかに重要なことであるかを後から私は学んだのでありますよ。
それは「宗教改革」です。
宗教改革が起こってプロテスタントが生まれるわけですが、その立役者となったのがカルヴァンです。
このカルヴァンが、何が偉かったかというと、「聖書を徹底して言葉どおりに読む」ということをした。
ここから宗教改革は生まれたわけです。
小室博士は、この故事にならっただけなんですよ、基本的には。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教もどれも基本的に「啓典宗教」と言って、基準となる書物をこそ最上位において、その基準に従うのをよしとする宗教なわけです。
で、ヨーロッパにおける宗教権力の腐敗は、この聖書を誰にも読ませず、勝手に免罪符を売りつけたりして進んでいたわけですよ。それを聖書を徹底精読することで打ち崩したわけです。簡単にシンプルに書いてしまえば。
小室さんは、そういう歴史のあり方に素直に従ったまでです。で、その著作がこの一冊です。
別に、偉そうな自分なりの哲学を打ち立てる必要もないし、英雄のように度胸のある行動をとらなくてもいい。せめて、本が目の前にあるならキチンと読め。
それだけのことです。
ましてや歴史書は人類の先達の残した(残したということは残す意義のあった、ということです。)大切な宝ですからな。判断は読んだ後でよし、です。
ということで、明らかに読んでもいない人が、この本をして「トンデモ本」よばわりしたので、ここに書きました。
で、いつもならそういうことは「読んでから言え」とだけ言って、本の内容にまでは言及しないんですけどね。(これを言われて読む人間は少ない。でも、読む前に内容を要約して教えるとかはしない。それこそ僕の読み方が間違っているかもしれないわけだから。でも、読まない人は本当に読まない。あかんよなぁ。ほんま。)
でも、この本はどうも絶版みたいだし、とにかくざっくり書くだけ書くことにしました。
ごちゃごちゃ偉そうに言ってる人が偉いんではないのです。コツコツ一次資料にあたって、正しく読み解く作業をしている人が偉いのです。
ま、とにかくすごいですよ、小室先生は。この一次資料にキチンとあたるという態度だけでも、どれだけ人生に大きく役立っていることか。なんてことないことなんですけどな。でもここ一番で、とにかく強烈な効果があります。どんなときでも。この態度は。
小室博士は、尊敬してます。本当に。はい。
この本、売ってるのかなぁ。いまはもうないと思う。
入手困難なんよな。
これをして「トンデモ本だ」と思ってる人が知り合いにいてるので、簡単に解説だけ書いておこうと思った。
この本は信長本なわけですが、信長の話はまぁいいのです。
それよりも、日本の歴史家がいかに「ええかげん」であるかが、この本を読んではっきりわかったというのが一番大きいんですな。
小室さんはアメリカまで留学して学問の基礎から学んだ人ですよ。ほんまもんの博士であって、トンデモ本なんか書く人ではない。なによりこの人はどの本一冊取っても、「学者」という枠からはずれたことは書かない。
(その外れていないという点で問題があることはある。それと学者の立場を離れて個人的意見を述べることもある。それもちょっと困る。でも概略すごい人です。)
信長と言えば「桶狭間の戦い」なわけですよ。
常識的に。
それはみんなそう思ってたし、山岡壮八の小説だってそうなってた。
で、みんな「狭間の戦い」と思ってたわけですよ、この本が出るまで。「はざま」ね、「はざま」。
みんな谷間で休んでた今川義元が織田信長の急襲にやられたんだと思ってたわけ。いまだにそう思ってる人は多いのよ。
でもね、もっとも歴史的事実に関して正確だと言われている「信長公記」(信長と同時代の太田牛一が書いた歴史書。信長に関する史実はこの本を頼りに推理するのが定番になっている。)の「読み方」自体がみんなええかげんやんけ、と暴いたのが小室さんなわけです。
だって、「信長公記」には「桶狭間」なんて一言も出てこないんだから。
出てくるのは「おけはざまやま」です。
「やま」なの、「やま」。
どこが「はざま」やねん、ちゅう話ですわな。
それも「一気にかけあがり」だったかなんだか、そういうことが書いてあるわけよ。どこをどう読んでも「谷」とか「はざま」には読めない。山を駆け上って攻めてるのよ。
そういう指摘を小室さんはしたわけです。
歴史家とか信長研究家とか、そういう人が偉そうに「推理」して、あてずっぽうで「おけはざまで信長が勝ったのは暑い日だから敵側が小手や具足を外していたからだ」とかなんとか、もう好き勝手言ってる横から、小室さん、ひょひょいと出てきて、一番学術的に信頼性の高い資料をじっくり読んで、「これは狭間ではない。山だ。」と指摘したのですよ。
たぶんね、みんな「はざま」という言葉と、義経のひよどり越えのイメージがあって、「谷間」と思っちゃったわけよ。
学者として実に正しい指摘なわけですよ。歴史学というのは、要するに資料読み学なわけですから。その基本の基本をピシッと筋を通して貫いただけなの。
で、その基本の基本をピシっと貫いただけで「ということになっている」というイメージだけ雰囲気だけの世界を完全にぶち壊してしまったわけです。
ということで、この後に緒方直人主演でNHKでテレビ化された織田信長では、この「やま」説を採用しておりました。
ま、誰もグゥの音も出ないわけですよ。これは。ようするにみんな基本資料もちゃんと読まずに、自分の思い込みだけで「語って」いたわけだから。
アホやん、そんなん。
山岡壮八もまぁアホですわな。でもまぁ、こらしゃーない。小説家やねんし。話をドラマチックにわかりやすくするなら、ひよどり超え風にした方が楽やし。
司馬遼太郎の「国盗り物語」も同じレベルの描写だったと記憶してます。
ま、小説家ですから。
誰も資料すらちゃんと読んでなかったというのが実際のところなんよな。
で、だ。
この本を読んだ時は「うわっ、資料読むとかキチンとやらなアカンよな」ということを学んだだけだったわけですが、その後、さまざまな勉強をしまして、この「資料をキチンと読み込む」ということがいかに重要なことであるかを後から私は学んだのでありますよ。
それは「宗教改革」です。
宗教改革が起こってプロテスタントが生まれるわけですが、その立役者となったのがカルヴァンです。
このカルヴァンが、何が偉かったかというと、「聖書を徹底して言葉どおりに読む」ということをした。
ここから宗教改革は生まれたわけです。
小室博士は、この故事にならっただけなんですよ、基本的には。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教もどれも基本的に「啓典宗教」と言って、基準となる書物をこそ最上位において、その基準に従うのをよしとする宗教なわけです。
で、ヨーロッパにおける宗教権力の腐敗は、この聖書を誰にも読ませず、勝手に免罪符を売りつけたりして進んでいたわけですよ。それを聖書を徹底精読することで打ち崩したわけです。簡単にシンプルに書いてしまえば。
小室さんは、そういう歴史のあり方に素直に従ったまでです。で、その著作がこの一冊です。
別に、偉そうな自分なりの哲学を打ち立てる必要もないし、英雄のように度胸のある行動をとらなくてもいい。せめて、本が目の前にあるならキチンと読め。
それだけのことです。
ましてや歴史書は人類の先達の残した(残したということは残す意義のあった、ということです。)大切な宝ですからな。判断は読んだ後でよし、です。
ということで、明らかに読んでもいない人が、この本をして「トンデモ本」よばわりしたので、ここに書きました。
で、いつもならそういうことは「読んでから言え」とだけ言って、本の内容にまでは言及しないんですけどね。(これを言われて読む人間は少ない。でも、読む前に内容を要約して教えるとかはしない。それこそ僕の読み方が間違っているかもしれないわけだから。でも、読まない人は本当に読まない。あかんよなぁ。ほんま。)
でも、この本はどうも絶版みたいだし、とにかくざっくり書くだけ書くことにしました。
ごちゃごちゃ偉そうに言ってる人が偉いんではないのです。コツコツ一次資料にあたって、正しく読み解く作業をしている人が偉いのです。
ま、とにかくすごいですよ、小室先生は。この一次資料にキチンとあたるという態度だけでも、どれだけ人生に大きく役立っていることか。なんてことないことなんですけどな。でもここ一番で、とにかく強烈な効果があります。どんなときでも。この態度は。
小室博士は、尊敬してます。本当に。はい。
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