「上達の法則」を読む。
2003年11月7日 ●じぶんの心マップえー、今日の日記は、やたらと長いし、抽象度もやたらめっぽう高いので、読んでてヒーハー言うことになると思うけど、そういう内容なんだししょうがないやと思ってあきらめて読んでいただきたい。
さて。
この間から、ウクレレの話をよく書いてますが、私にとっては、相当に大きな「救い」のように感じてるのです。
で、その「救い」と感じられるようになったきっかけが、この本でした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569621988/qid=1069176597/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-4162557-7679561
「上達の法則」PHP新書 岡本浩一 680
で、多分、この7日くらいに買ったはずなのであります。
別に、この本に「技能を磨いたら、落ち込みから抜け出せるよ」なんてことはじぇんじぇん書いてないんだけど、読んでてとにかく精神的にすごく落ち着く感じがあったので、うれしかったのであります。
ここしばらく、自分に自信がどんどんなくなっていく感じが非常に強かったのですが、前に書いた「自分セラピー」に「自信とは自分に対する信頼感である」という話が載ってて「ああ、そうだよなー。」と深く納得してたわけです。
他人との約束は守れても、自分との約束を守れない状態になってたんですね。ここしばらく。で、なんか自分をないがしろにしてる感覚があっていけないなぁと思ってたんです。
でも、「自分セラピー」を読んでなるほどなぁと思ったのは、他人との約束を守るというのは、「私という人が他の人と約束をした」という「自分との約束」を守ったということなわけです。で、自分との約束というのは、自分で自分のために約束することなわけです。
よく「仕事中毒」で、仕事をしてないと落ち着かない人というのがいてますが、それはこの「他人との約束も自分との約束であり、自分とだけ交わした約束も自分との約束なのである」という構造がしっかり掴めていない人なのだということなんですね。
自分との約束は、他者の目がないから、つい守らずにおいてしまって、結局自分をないがしろにしている。本当はどの約束も「自分」という人はしっかり見て知っているから、自分との約束を守っていないと自分で自分を裏切ったことになるので落ち込みが激しいのです。
その落ち込みを取り返すために他者の目のある約束=仕事をやたらと守ろうとするわけですね。でも本当はどっちも「自分との約束」という意味では同じものなのに。片方が達成されていないから、もう片方で取り替えそうとしている。
ま、少なくとも僕にはそういうところはちょっとはあったよなー、とか思ってたのです。本当はどっちの約束もつねに自分は関わっているのだから、もっと自分を信用しても良いはずなんだけど、つい「自分しか看視者のいない約束」は後回しにしていて、結果として「自分を大切にする行為」だけが「不得手」になって行ってしまってたわけですね。
「他者による強制力」がないと何もできない人なのだとか、そういう間違った認識を持ってたのかもしれない。そうじゃなくて、どっちも自分との約束なのだし、どっちの約束も結局守ってるのは自分なのだから、もっと自分に自信を持っても良いわけです。
とは言うものの、この「他者の監視がなく、自分だけが知っている自分との約束」を、あんまりキチンと守ってこなかったというのは確かにあるので、それをなんとかしようと思うわけです。
というか、いつもそういう「自分との約束」はそれなりに守ってはきていたんだけど、あんまり自覚的ではなかったっていうことなんですね。
とどのつまり、自分を大切にしているのだ、という感覚を、物理的にちゃんと成果のある形で知るためには「趣味」というのがとても良いのですなぁ。
僕の場合はウクレレなわけですが、別に囲碁や将棋でもいいし、英語の学習でも良いだろうし、なんだっていいんですけども、何か自分の好きなことを身につけて、それを「上達」させるということがすごく重要という気がします。
何かを上達させるということには、自分の実力を社会的な一般ルールの枠組みの中での自己というものを、つねに再確認しながら、次のステップを選び取っていくという自覚的な進歩の意志が必要なわけです。
で、この書籍に書いてあるようなジャンルを越えて存在する「上達の法則」みたいなことを抽象的にでも整理して頭に入れておくと、ひとつの趣味の上達という成果が、自分の人生の、ありとあらゆる局面に対する精神的なバックボーンになっていってくれるのですね。
この本を読んで強く感じたのは、そういうことでした。自分の経験、とくに上達したいという意志が、いかに自分を救うのに大きな力になるか、というようなことです。その努力は決して無意味なものではなく、社会的に他者にも通ずる努力であり、成果にもなることなのだけれども、ところが個人の努力の仕方としては、とても個別的で比較のしようがない特性もまたあったりするものなのですね。
うまく言えないのだけれども、いたって「個」的な努力の事柄、というのはとてもみっともないし、他者にも理解してもらえないのだけれども、しかし、その「みっともなさ」を越えて自分の成長は担保されていくというかなんというか。
なんかどんどん話が抽象的になっていってるなぁ。
たとえば実例としてはこういうことです。
走り高跳びの「背面飛び」というのは、1968年のメキシコオリンピックで、フォスベリーという人がはじめて使った飛び方なのですが、これはもともとフォスベリーがベリーロールという流行の飛び方が不得手で従来からあった「はさみ飛び」しかできなかったことが最初のきっかけだったんですね。(このあたりの話はほんのちょっとだけ「上達の法則」にも出てきますが、僕自身は他の書籍でこのあたりの過程を読んだのでなお面白いのであります。)
しょうがないから「はさみ飛び」で、もっと高く飛べる方法はないかと苦労しているうちに、結果として背面飛びという独特の形が生まれてきたわけです。フォスベリー当人は、はさみ飛びだとどうしてもお尻がバーに当たってしまうので、それを飛び方を変えずに微妙な調整で回避しようとしていて、その結果が背面飛びになってしまっただけということなわけです。
ここにあるのは、決して「変ろう」という意志ではなくて、いまのままの自分を大切にしながら、ただ「改良」していこうとする、上達の意志だけだったわけですね。
このあたりの精神構造が重要だと思われるのでありますよ。
何かに「なろう」として、背面飛びが生まれたのではなくて、自分のまま「あろう」として、背面飛びは生まれた。そういうことなわけですね。
何かに「なろう」としなくても良いのです。ただ、自分でより良い自分で「あろう」とすればいい。なんというか、そういうことだと思うのですよ。ただ、そこで重要なのは、上達していこう、より良いところに行こう、成長しようという「意志」だけであって、他者との比較とか、他者による監視とか、世間一般論としての方法とかは全然関係ないわけです。
ただ私が私としてのたうち回りながらでも、「より良くなりたい」「もっと幸せでいたい」と願い、それを自分のために実践していれば良い、というか、結果として人間はそれしかできないのではないかという気がするわけですね。
一足飛びに挟み飛びから背面飛びには移行できないんですけど、上達の意志さえ持っていればそこに至れるというか。
まぁ、これは趣味を持って上達を望んでいることの究極の方向性ではありますが、そこまで大それた目的でなくても、たとえばスランプからの脱出とか、さまざまな面で趣味で培ってきた精神的素養というものが、実…
さて。
この間から、ウクレレの話をよく書いてますが、私にとっては、相当に大きな「救い」のように感じてるのです。
で、その「救い」と感じられるようになったきっかけが、この本でした。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569621988/qid=1069176597/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-4162557-7679561
「上達の法則」PHP新書 岡本浩一 680
で、多分、この7日くらいに買ったはずなのであります。
別に、この本に「技能を磨いたら、落ち込みから抜け出せるよ」なんてことはじぇんじぇん書いてないんだけど、読んでてとにかく精神的にすごく落ち着く感じがあったので、うれしかったのであります。
ここしばらく、自分に自信がどんどんなくなっていく感じが非常に強かったのですが、前に書いた「自分セラピー」に「自信とは自分に対する信頼感である」という話が載ってて「ああ、そうだよなー。」と深く納得してたわけです。
他人との約束は守れても、自分との約束を守れない状態になってたんですね。ここしばらく。で、なんか自分をないがしろにしてる感覚があっていけないなぁと思ってたんです。
でも、「自分セラピー」を読んでなるほどなぁと思ったのは、他人との約束を守るというのは、「私という人が他の人と約束をした」という「自分との約束」を守ったということなわけです。で、自分との約束というのは、自分で自分のために約束することなわけです。
よく「仕事中毒」で、仕事をしてないと落ち着かない人というのがいてますが、それはこの「他人との約束も自分との約束であり、自分とだけ交わした約束も自分との約束なのである」という構造がしっかり掴めていない人なのだということなんですね。
自分との約束は、他者の目がないから、つい守らずにおいてしまって、結局自分をないがしろにしている。本当はどの約束も「自分」という人はしっかり見て知っているから、自分との約束を守っていないと自分で自分を裏切ったことになるので落ち込みが激しいのです。
その落ち込みを取り返すために他者の目のある約束=仕事をやたらと守ろうとするわけですね。でも本当はどっちも「自分との約束」という意味では同じものなのに。片方が達成されていないから、もう片方で取り替えそうとしている。
ま、少なくとも僕にはそういうところはちょっとはあったよなー、とか思ってたのです。本当はどっちの約束もつねに自分は関わっているのだから、もっと自分を信用しても良いはずなんだけど、つい「自分しか看視者のいない約束」は後回しにしていて、結果として「自分を大切にする行為」だけが「不得手」になって行ってしまってたわけですね。
「他者による強制力」がないと何もできない人なのだとか、そういう間違った認識を持ってたのかもしれない。そうじゃなくて、どっちも自分との約束なのだし、どっちの約束も結局守ってるのは自分なのだから、もっと自分に自信を持っても良いわけです。
とは言うものの、この「他者の監視がなく、自分だけが知っている自分との約束」を、あんまりキチンと守ってこなかったというのは確かにあるので、それをなんとかしようと思うわけです。
というか、いつもそういう「自分との約束」はそれなりに守ってはきていたんだけど、あんまり自覚的ではなかったっていうことなんですね。
とどのつまり、自分を大切にしているのだ、という感覚を、物理的にちゃんと成果のある形で知るためには「趣味」というのがとても良いのですなぁ。
僕の場合はウクレレなわけですが、別に囲碁や将棋でもいいし、英語の学習でも良いだろうし、なんだっていいんですけども、何か自分の好きなことを身につけて、それを「上達」させるということがすごく重要という気がします。
何かを上達させるということには、自分の実力を社会的な一般ルールの枠組みの中での自己というものを、つねに再確認しながら、次のステップを選び取っていくという自覚的な進歩の意志が必要なわけです。
で、この書籍に書いてあるようなジャンルを越えて存在する「上達の法則」みたいなことを抽象的にでも整理して頭に入れておくと、ひとつの趣味の上達という成果が、自分の人生の、ありとあらゆる局面に対する精神的なバックボーンになっていってくれるのですね。
この本を読んで強く感じたのは、そういうことでした。自分の経験、とくに上達したいという意志が、いかに自分を救うのに大きな力になるか、というようなことです。その努力は決して無意味なものではなく、社会的に他者にも通ずる努力であり、成果にもなることなのだけれども、ところが個人の努力の仕方としては、とても個別的で比較のしようがない特性もまたあったりするものなのですね。
うまく言えないのだけれども、いたって「個」的な努力の事柄、というのはとてもみっともないし、他者にも理解してもらえないのだけれども、しかし、その「みっともなさ」を越えて自分の成長は担保されていくというかなんというか。
なんかどんどん話が抽象的になっていってるなぁ。
たとえば実例としてはこういうことです。
走り高跳びの「背面飛び」というのは、1968年のメキシコオリンピックで、フォスベリーという人がはじめて使った飛び方なのですが、これはもともとフォスベリーがベリーロールという流行の飛び方が不得手で従来からあった「はさみ飛び」しかできなかったことが最初のきっかけだったんですね。(このあたりの話はほんのちょっとだけ「上達の法則」にも出てきますが、僕自身は他の書籍でこのあたりの過程を読んだのでなお面白いのであります。)
しょうがないから「はさみ飛び」で、もっと高く飛べる方法はないかと苦労しているうちに、結果として背面飛びという独特の形が生まれてきたわけです。フォスベリー当人は、はさみ飛びだとどうしてもお尻がバーに当たってしまうので、それを飛び方を変えずに微妙な調整で回避しようとしていて、その結果が背面飛びになってしまっただけということなわけです。
ここにあるのは、決して「変ろう」という意志ではなくて、いまのままの自分を大切にしながら、ただ「改良」していこうとする、上達の意志だけだったわけですね。
このあたりの精神構造が重要だと思われるのでありますよ。
何かに「なろう」として、背面飛びが生まれたのではなくて、自分のまま「あろう」として、背面飛びは生まれた。そういうことなわけですね。
何かに「なろう」としなくても良いのです。ただ、自分でより良い自分で「あろう」とすればいい。なんというか、そういうことだと思うのですよ。ただ、そこで重要なのは、上達していこう、より良いところに行こう、成長しようという「意志」だけであって、他者との比較とか、他者による監視とか、世間一般論としての方法とかは全然関係ないわけです。
ただ私が私としてのたうち回りながらでも、「より良くなりたい」「もっと幸せでいたい」と願い、それを自分のために実践していれば良い、というか、結果として人間はそれしかできないのではないかという気がするわけですね。
一足飛びに挟み飛びから背面飛びには移行できないんですけど、上達の意志さえ持っていればそこに至れるというか。
まぁ、これは趣味を持って上達を望んでいることの究極の方向性ではありますが、そこまで大それた目的でなくても、たとえばスランプからの脱出とか、さまざまな面で趣味で培ってきた精神的素養というものが、実…
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