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●失敗を生きる
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ウクレレをやっていて、いちばん大きく学んだことは、「失敗を生きる」って事だと思う。

ウクレレという楽器は弦が4本しかないんですよね。で、本来はあくまでフラの伴奏用として発展してきたから、サブの楽器であることが使命で、この一本で何かがどうにかできるというものでは、本来ないんです。

単純に言ってしまえば、コード。
コードというのは、通常は3音でひとつの和音となっていて、(ドミソでCコードだとか。)それに7thとか6thとかの音が上乗せになり、また基底音としてのベース音が必要なわけです。(ドミソならドの音がベース音で、一番低い音になってる方が安定性は良いとか言うこと。)

でも、ウクレレは4本しか弦がないので、ちょっと凝ったコードとか弾こうとすると、キチンと基本に則った和音構成にすることができないわけです。

とくにハイGチューニングって言って、もっともポピュラーなチューニングのウクレレだと、4本の弦があっても、1弦と4弦のカバーする音の差がすごく小さく設定されてるんですね。ソとラだから隣同士の音と言っても良いくらい近い音になってます。(で、だからユニゾン的音の響きがあって、そこがウクレレの可愛らしさの秘密だったりもするんだけど。)

だから、実質、ウクレレは3弦しか弦がないのとおなじなので、まともな音楽をかなでる事ができない、もともと「失敗している楽器」なわけです。

なんせ、楽譜・楽典上は、まったく別のコードなのに、ウクレレで弾くと、弦の数の少なさから、「同じ押え方やん!」となってしまうコードがかなりあるのです。作・編曲者の意図を無視してます。
ちゅうか、意図をキチンと再現できません。(笑)

でもね。

だから良いのだ、っていう部分があるわけですよ。

それは、「最初から失敗しているのだから、もう失敗のしようがない」というような安心感なわけです。

どんなコードを弾いても、似たような音にしかならない。だから、気合い入れて頑張っても、気を抜いて適当にやっても、出てくる音に、差はあまりない。みたいなところがウクレレにはあるわけです。

でもね、だからと言って、努力してその努力が報われないか? というと、これがけっこう、そこそこ報われたりするんですよね。

それは、ウクレレの神様と言われてるハーブ・オオタさんのソロ演奏なんかを聴いてると感じる。「こんなハンデのある楽器で、ここまでできるのか!」って言う驚きというか。

ちゅうか、多分、音楽の事を全然分ってない素人が聞いたら、たぶん「普通の楽器が普通の演奏している」ってだけにしか感じないだろうなぁって思う。
でも、しかし、そこが本当はすごいわけなんだよね。

でも、そういう「上」の世界はあるけど、「下」は本当にどうしようもなく「失敗」している楽器だから、まぁそれはそれで、失敗そのものを受け入れて生きる、というのが、この楽器好きの基本的態度になっていくわけです。

そういう部分から学んだ事は多いのですよね。

●できない事はあきらめる。
●できることは、より上手にやる。

みたいな事でしょうか。
そういう事がすごく大事なんだよなぁ。
生きていく上で。

それはたぶん、「限界があるなかで精一杯生きる」ってことなんだろうなって思う。
この「限界を知った上で」って言うのが、かなり大事な事なんですよ。
その限界を身近に感じておくこと。
それが幸せの秘訣なんだと思う。

所与の条件というものが人間にはあるんです。こればっかりは仕方ないって思う。アダルトチルドレンの話でも同じ事。親の人格その他に問題がある、なんてことはザラにある。だから、そういう所与の条件として「私は基本的な生きるスキルに不足部分があるぞ」とわかった上で生きるってのが大事なんですよね。

限界を知った上で努力する。

そうすると、ウクレレの神様、ハーブ・オオタさんが弾く演奏のように、パッと聞くと素人見には「普通の楽器やん」ってところまでは行ける。
いや、そこまで行けなくても、フラと一緒になれば伴奏楽器として、とても重宝されるわけです。

この他者と補い合うってところも、ウクレレを習いに行って学んだ部分ですなぁ。
合奏がね、良いんですよ。
とにかくいい。

個々のパートは、さして難しくないんだけれど、だから簡単に弾けてしまうわけですが、それが一曲にまとまると、ハーモニーになる。

よく「なんちゃらとなんちゃらのハーモニー」なんて言いますけど、自分で実際に弾いて、それでハーモニーを感じると、本当に幸せ感が大きいのですよ。

ひとりひとりは限界があってもいい。
ただ、やれる範囲の事をていねいにやるって事が大事なんだよなってつくづく思う。

ウクレレはピアノじゃないから、低音から高音まで全部が出てくるようなアレンジは無理。
そこを理解した上で、先生はアレンジ譜を書いてくれるし、その範囲で充分に楽しい。

でも、世間の人間には、ウクレレはピアノみたいにすべての音が出ないからダメとか思っちゃう人も多いよなって思う。
あるいは、自分がウクレレなのに、必死になってピアノ曲の楽譜を弾こうとして失敗してる人とか。

この手の失敗は自分が下手なのでもないし、楽譜が悪いわけでもない。自分の持ってる楽器がウクレレなのだと気付いてない事が問題なわけですよ。そこに気づきさえすれば、可能性はいくらでも広がっている。

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●難しい課題と失敗と練習と。
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それと、ウクレレから学んだ事で、かなり重要だったのが、「難しい課題に挑戦する意味」なんですな。

簡単な曲とか難しい曲とか、世の中にいろいろありますけど、やっぱり課題の中には難しいものもあるわけです。コードの押え方がしんどいとか。

ま、それは聞いてる人にはわからない事で、そういう難しいところでつまづいたとしても、逆に聞いてる側は失敗とは気付かない、てな事もあるわけですよ。だから、そこはできる範囲でサラッとスルーしても別に悪くはないわけです。

でも、やっぱり一曲の中で2、3カ所難しいところがあると、それはなんとか弾けるようになりたくて必死に練習するんですね。

で、練習するとどうなるか?

これが素人の僕程度では、そう簡単には克服できないわけです。(笑)

弾いても弾いても、同じところでつまづく。難しいところは、やっぱり難しいんだよねー。

でも、そうやって弾いていくと、簡単なところはどんどん上手くなるんですな。リズムキープするとか、和音の響きがキチンと出るようになってるとか。

それは、自分にとっては、「すでに出来ること」だから、あんまり進歩の実感がないわけです。「そのくらいはできらーな」と思ってる部分なわけで。こっちとしては克服したいところが克服できてないのだから、意味がないわけです。なので、また難しい所を含めて頭から練習するわけで。

で、結果、難しいところは弾けないんですよ。でも、素人の人間が聞くと「おお、えらい上手くなったなぁ」って思うわけです。「どこがどうとかわからんけど、上手くなったよ。」ってほめられる。

そういう事なんですね。苦手克服にチャレンジするって事は。
別に苦手が克服できなくても良いのです。出来ることが上手になってるなら。
でも、その「出来ることをより上手にやるために練習する」なんて事を、実は人間はあまりやらないのですよ。だって「すでにできてる」と思ってるから。本当は「キチン」とはできてないんやけど、そこには気付けないのですなぁ。まぁそういうもんなんです。

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●島国文化のこと。
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で、こういう限界を知るって部分は、ウクレレがハワイという島国で生まれたという事と無縁ではないって気がするわけです。まさに「島の文化」だなぁって思う。

日本は島国ですが、ほんとうの小島に行くと、島国がいかに視界が良いかが良く分かる。瀬戸内海の小島に遊びで移動したら、四国も神戸も大阪も広島も全部見れたんですね。でも、そういう視界の良さを、それぞれの都市の人はあまり知らないのです。

島国文化というと狭苦しい、偏狭さを持っているように感じるけど、それは半分当りで、半分は間違いなんだよなぁって思うのです。

日本の固有の音楽は、ヨナ抜き音階と言って、ドレミファソラシという7つの音のうち、4番目のファと7番目のシの音を抜いたスケールになってます。だから、ドレミソラドの音だけで曲を作ったら、すぐに演歌っぽい曲が作れる。

これは西洋音楽からしたら、特定の音を抜いてるだけだから、すぐわかるし、幼稚に見えることだろうと思います。

で、沖縄の音楽は、「ニロ抜き」でレとラを抜く。「ドミファソシド」です。

日本人はいまや、ヨナ抜き音階なんて忘れてるけど、沖縄は小さな島だから忘れてない。

「島唄」を作った宮本誰だっけ?は、だから、当初は沖縄の古老たちからは嫌われたらしい。出だしと最後はいいけど、真ん中の「ウージヌ森で、あなたと出会い」のところは沖縄音階ではないのですな。だから「この歌は沖縄の歌ではない」と言われた。

でも教科書とかにも載ったらしいんだよね、この歌は。だから若い世代が「島唄」も沖縄の歌だ、沖縄の人間ではない人が沖縄を愛してくれて作ったのだから沖縄の歌だと言って、いまでは沖縄でも認められてるそうです。

でも多分「○○抜き音階」っていうのは「○○がない」って所に存在価値があるわけだから、他の音が入ってしまったら、それは雑音なのであって、美しくなく、音楽自体でなくなってしまうのだろうとも思う。音楽の概念そのものが変質してしまう危機なんだろうなぁと。

これが本当の意味でのアイデンティティの崩壊なのだろうと思うのです。いままでなかったものが存在することで、ある体系が壊れてしまうのだ。

ウクレレで言えば、実はウクレレの神様と呼ばれるハーブ・オオタさんは、それまで伴奏楽器でしかなかったウクレレでソロを弾いて、それでソロウクレレというジャンルを世界に広めた偉大な人なんだけど、多分、そういう事はハワイでは最初、「ウクレレの本道を外してる」と言われたに違いないって思う。

なにせウクレレは、本来伴奏楽器だったのだから。
ハワイにはフラという「言葉」があった。
踊りじゃないですよ。言葉です。

その言葉によるメッセージを補強するというのが楽器の役割だから、ウクレレが一人でしゃべったら、そらアカン、という事になるんやろなぁって思う。

でもハーブ・オオタさんはそれをやぶった。

やぶったけど、島国に住んでる人たちは、島国から抜け出る事はできないのです。

と言うことは、世界を席巻している標準的な音楽の考え方を、甘んじて受入ながら、それでも、「○○抜き」ではなくなった音の世界で、なんとか「○○」を抜きながら、自分たちの文化を上手に守っていくしかない。それは「○○」の音を受入ながらね。

ハワイの音楽はエルビスプレスリーのブルーハワイでもそうですが、アメリカ本土でも人気が出て、アメリカの作曲家が「ハワイ風の曲」というのをいくつも作って、そんでまた、そういう曲が人気が出た。アメリカン・ハワイアン。

だからハワイに旅行に出かけた人は、そういう事も知らずに、「あの曲やって!」とか言うだろうし、それを多分ハワイの人は、だまって受け入れて、ちゃんと弾くんだろうなって思う。

でも、そうやって旅人と仲良くなっても、別れの時には絶対アロハ・オエだ。別れの曲は、アロハ・オエというハワイの心の曲でないと許されない。旅人は、やってきて去る。どんなに良い関係を結べていても、島国に来た人は去る。だからアロハ・オエは大切な島の歌なんじゃないのかなって思う。

島国の人たちは、自分たちの世界が狭い事を良く知っている。だから、自分たちの文化が翻弄されても、もっと広くて大きな社会の流れの中に、なんとかゆったりと抵抗しながら付き合っていくしかないと言うことを、良く知っているのだろうと思う。

島国は回りを見渡しやすいのだ。本来は。

でも、日本はダメよな。大国日本だとか勘違いしてる。本当は小さいのに。もっとハワイや沖縄の人たちの生き方から学ばないとダメだろう。

ハワイの人がアロハ・オエを守るような事ができてないって思う。日本人は。
世界の真似は一生懸命やるけど、「それでも残さなきゃ」という、アロハ・オエがない。
そこは、やっぱりちょっと寂しい。

それもこれも、結局は「限界を知ってる」かどうかだと思うのです。

ウクレレしか持ってないのに、ピアノ譜を見て「弾けない!何故?」とか言ってるのが、やっぱり今の日本人なんだよなぁっていうことを、すごく強く思います。

それは自分を含めてなんだけど。
日本は超大国? そんなんホンマか?
で、そういう超大国であることが幸せにつながることなんか?
ほんまにピアノ譜、弾けるの?
ウクレレ用のアレンジの方が良くない?

とかって思うんやけど、なんか日本人ってアメリカン・ハワイアンみたいな曲ばっかり弾いてるよなぁって思う。それがアメリカン・ハワイアンやと気づきもせずにさぁ。

ああ、なんかウクレレから学ぶというより社会時評になってきたので、これでやめます。

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