結局、人の判断には、愛情から出たものと、恐怖から出たものと二種類があって、恐怖をベースにした判断は発展性がないってことなんだと思うのですよ。

いきなり結論を書いてしまってますけど。

山内社長は優れた人ではあったけど、やっぱり判断が「作り手の愛」がないせいで、最後の最後で「失敗しないようにする」という恐怖をベースにした判断に傾きがちだったと思うのですね。

指摘した三つの間違いすべてがそういう判断だったと思う。

●ファミコン→スーパーファミコンの転換点でPS2のような上位互換を持たさなかった事。

というのは互換性を持たせると単価が上がり、ヒットしない、家庭に入りにくくなるという判断があったからです。ここで山内社長は「良いものは高くても売れる」とは考えなかったし、最初のファミコンでいきなり50万台だか100万台だったかを一括発注して単価を下げるという大ばくちを打った成功体験を捨てられなかったわけです。

まぁ人間なら誰だってそうなると思うから仕方ないんだけどね。

でも、作り手とユーザーの立場から言えば、それはもう上位互換は絶対欲しかったはずなんですね。作り手からすれば、続編を出すたびに従来機の旧作も売れるということになって助かるわけだから。

で、もうひとつは、

●スーパーファミコン大ヒット時にCD-ROM付きマシン(計画名プレイステーション)を出さなかった事。

という点。これもROMメディアからディスクメディアマシンへの転換ということもさることながら、「SONYとの提携を怖がった」のが悪い方に出たってことです。

知ってる人は知ってるわけですが、任天堂とSONYは「CD-ROM付きスーパーファミコン」というものを共同開発しかけてたんですね。その計画名が「プレイステーション」で、この時の共同研究の素地があったからこそ、PSという商品名が「プレイステーション」になったわけですから。

しかし任天堂というか山内さんは、世界企業SONYに取り込まれることを恐れてか、SONYとだけではなく、CD-ROM規格の著作権を持つもうひとつの会社、フィリップスとも共同開発しようとしたんですね。

たぶんねー、CD-ROM特許を持つSONYへの牽制策としての側面がすごく大きかったんだろうとは思うのですが、こういう態度はやっぱり失礼ですわね。SONY側は本気で怒ったらしいしねぇ。で、それが結局、いまのPS/PS2につながっていて、任天堂が人気凋落した原因にもなってる。

●NINTENDO64をディスクメディアマシンにしなかったこと。

とも共通するんですが、ディスクメディアというのは、本当に印刷がしやすくて、少量単位での追加増産がしやすいメディアなんですね。で、工場のラインや人材も、実はレコードの時の流用・発展が可能だったから柔軟に行えたんです。当時から。

でもそれが逆に山内さんには、・特許は握られる・生産ノウハウも握られる・それらの生産管理コントロールノウハウも太刀打ちできない・著作権事業に関しても高い能力を持っている、SONYが驚異だったんだと思うんですよ。

でもね、本来新しい表現媒体というのは、マンガでも映画でもテレビでも同じですが、ものすごく高い普及速度とアピール能力のポテンシャルを持っている。だから、そういう「慎重さ」に傾かなくても、高いポテンシャルに賭けて市場の広がりを頼りに「えい!」と上位互換・優良企業との提携・ディスクメディアの採用を行っても良かったはずなんです。

しかし、そこで、そういう作り手発想の愛あるスタンスを取れなかったのは、やはりゲームというものが「遊び」という特殊な位置づけの存在だったからと言えると思うのですね。

「遊び」というのは、難しいんです。人間を「遊ぶ類人猿=ホモ・ルーデンス」と意味づけたヨハン・ホイジンガあたりの著作などを考えてみても、「遊び」というものはつねに「表になってはいけない」存在で、でもだからこそ超重要な存在なんですね。

ホイジンガなんかは、「すべての文化は遊びから生まれる」というような事を言ってるくらいに重要なもの、人間の本質というような定義までしてます。

しかし、たとえば「ハンドルの動きに遊びがないと、安全性が確保できない」と言ったように、実は「遊び」というものは本来機能とは異なる事が本質という部分もあるわけです。

つまり表に出てきた時には、遊びでなくなっている、というそういう裏腹な問題なんですね。遊びは役に立たないからこそ良い、っていう、難しさがあるんです。

ゲームというものは、実はまさにそこに立脚している。

で、山内さんという人は、この遊びの本質を、よほど深く理解している人なんですね。だからこそ「ゲームがゲームらしさを持つ限り、いつ世間から不要とされるかわかったもんじゃない」と言ったニヒリズムを持たざるを得なかったわけです。

これは恐らく、相当に深い慧眼なんです。これはこれですごい。多分そういう発想のあった人です。

で、そこはスゴイよなぁとは思うんですけど、でも僕はやっぱり、そういうニヒリズムが嫌いなんですね。

たとえば、アタリショックからゲームの粗製濫造を避けて規制をかけたことでも、僕は逆だと感じる。悪いソフトが出ないようにするのではなくて、混交玉石状態、カオスの状態を維持して、そこから新しい表現形式が生まれてくることを促進すべきだったと思うのですよ。それこそ「芥川賞」や「直木賞」みたいなことです。

山内さんは作り手ではなかったから、ここに思いが至らなかっただけだと思う。
芥川賞・直木賞は、結局、菊池寛が創設したわけですけど、やっぱり作家だからこういう発想になるんですな。で、しかも菊池寛は、文藝春秋という出版社を起こした起業家でもあった。だからビジネスとしての創作環境整備に心をつくしたってことでしょう。

元少年ジャンプの編集者(長だっけ?)の堀江信彦さんだったと思うのだけれど、マンガ雑誌をひとつ立ち上げるのには十年かかると言ってたはずなんです。どういうことかというと、新人の作品の善し悪しを判断して、上手に育てられる「編集者」を育てるのに十年の時間がかかるから、ということだったと思う。

人を育てる必要なんて、ゲーム業界でも同じことですね。
でも、新機種が出るたびに、それまでの制作ノウハウがリセットされてしまうのでは、「編集者」どころか、作家自体が育たない。

だいたいゲーム業界では「○○賞」をやろうにも、幅広い視点で作品を見抜ける「編集者」にあたる人が育ってないので、安定感のある賞が生まれない。せいぜいゲーム雑誌の評価記事ライターどまりなんですね。作家の質まで見抜ける人はほとんどいない。

で、こうなっちゃったのは、やっぱり山内氏の責任がすごく大きいと思うわけです。

で、特に重要なのが、山内氏が若き大学生のころ、任天堂の舵取りをしていた先代社長に代わって社長になって、「遊びをビッグビジネスにしてみせるぞ」と、勇んでアメリカの各種オモチャメーカーを視察に行ったときの出来事が、すごく大きなトラウマになってるんだと僕は見てます。

わ、あとちょっとで書き終わるのに、また3000字越えちゃうよ。もー、嫌だなぁ、ここの仕様。
続きはまたにします。

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