ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君
2005年12月10日 ゲーム
Video Game スクウェア・エニックス 2004/11/27 ¥9,240
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
えー、一年である。
え? 何が?
というと、表題のドラクエを購入してから一年が経った、ということなのである。
で、実は、いまだに終わってない。
鳥山明のキャラクターを3D化したということで、久々にドラクエをやったのだけど買って半年間、合間合間にやって、六月くらいに最後の山場までやったのだけれども、もうそこで投げた。
「まだ終わらんのかい!」って感じである。
えー、基本的にはアニメ的表現をポリゴンで達成したこの作品は「素晴らしい!」とは思うのだが、そういうことより何より、「どうしてこんなに長いのだろう」ということの方が気になってしまう。
こんなに長いとね、他のことができなくなっちゃうんだよなぁ。
ほんとに何もできない。
本を読む時間も削られてしまうし、勉強する時間も削られてしまう。
そこが、本当に問題なのだ。
いったい、ゲーム業界、どうしてこうなっちゃったんだろう、とか思う。
ちょっとおかしいよなぁ。
家庭用のテレビゲーム機と言えば、なんと言ってもアタリである。1977年にアタリVSCが出て全世界で二千万台を売った。当時としては大ヒットだった。
しかし、売れて売れてボロ儲けできてしまったから、ゲームの粗製濫造が横行し、それであきられて一気に市場がシュリンク。「家庭用ゲーム機」という市場そのものが消えてなくなってしまった。
この失敗例というか、成功例というかを見て「ゲーム機は稼げる」と判断して「人まねを上手にやる」というやり方で成功したのが「ファミリーコンピューター」を立ち上げた任天堂の山内溥社長である。
僕は、この山内社長というのが、良くも悪くも日本のゲーム業界の基本的な「色」を創ってしまったと思うし、ゲーム業界がこれからどうなっていくべきかを考えるにも、この山内社長のやったこと、言ったことの再点検なしにはありえないと思っている。
そして、この二十一世紀を代表するゲームであるドラクエが、こんなに異様なほど長い作品になってしまっているのも、結局は、この山内社長の「思想」が反映されてしまっている、ということなのだと僕は思うのだ。
山内社長の「ゲーム」に対する洞察力はするどい。実にするどい。
ここのするどさに関して書き出すと、長くなるのでそれはちょっと置いておくが、ともあれ、深い見識を持った人であることだけは間違いがない。
しかし、いかんせんこの人は「冷たい」のである。怜悧で創作物に対する「愛情」がないのだ。
それは、ファミコンの成功が、「アタリショックを繰り返すな」という徹底した「ソフトの品質管理戦略」から生まれているという点からも明らかなのだ。
山内社長は「粗製濫造を防ぐ」というやり方を取った。これがどうにも僕は好きではない。親しめない。
これはまさに「不幸にならないように」という発想の塊なのだ。どうにも気持ち悪い。
粗製濫造を防ぐという名目のため、あるいは「子供が楽しむためのものだから」という名目のため、ファミコンにおいてはゲーム内容への徹底したチェックが入った。
これを良しとする人もいるのだが、僕は基本的には大間違いだと考えている。一応コピーライターという「クリエイター系」の仕事をしているだけに、そんな創作者側でもないスタンスの組織が作品内容に口をだして、作品が面白くなるわけはないのだ。
毒は薄められ、口当たりの良いモノばかりが創られるようになり、親は「考えなくても」任天堂のゲームを買えばそれで良いということになった。
これは、思考の欠如だ。子供に与えるものは、親がしっかり吟味しないとダメだろう。ま、このあたりはどうでもいいが。
ともあれ、実態は「良質なソフトを創る」のではなく、「大量生産に向いた毒のない作品」を徹底管理した、ということの方が大きかったのである。
これには、実はファミコン独特のいかんともしがたい事情があったのだ。当時のゲームのメディアはROMである。メディアが半導体そのものだったのだ。
半導体を「焼く」わけだが、これはけっこうな大規模工場が必要で、半導体のチップを大量に仕入れて、そこに焼くということをしないといけないから、工場のラインの構築から数ヶ月の「計画生産」がどうしても避けられなかったのである。
だから、複数のさまざまなソフトを焼くよりも、大人気のソフトを大量に焼くという方向にどうしてもシフトさせたかったのである。任天堂のいう「良いソフト」というのは要するに「たくさん一気に売れる」だけだった。
それが一番効率が良かったし、儲かったのだ。
多少面白いソフトがあっても、ROMはそちらには回さない。すでに名前の大きなドラゴンクエストやらファイナルファンタジーなどに回す。とくに年末などの書き入れ時にはより一層その傾向が強くなった。
子供のため、というよりも、そういう生産事情のほうが、はるかに大きかったのだ。毒のなさも大量販売のため、である。
半導体だから価格も高く、ファミコン後期では一本一万円越えもめずらしくはなかった。いったい、どこが「子供のため」商品なのかと思う。
このドラゴンクエストも九千円台の価格で、当時の文化をいまだに引きずっている。いまはもうDVDでプラスチック板にデータを焼くだけだからバカ高い半導体工場も必要ないのに、悪しき風習だけはいまだに引きずられてしまった。
いま、ゲームというメディアが、活力を失っているのは、要するに、こういう生産工場の都合で、「創作者の自由」「表現の自由」の活力を奪ってきたことと一直線につながるものなのだと僕は思う。
あまりに単価が高くなりすぎたゲーム。良心のある作家はいきおい、あらゆるネタを作品に盛り込み、飽きず、長く遊べるようにするようになったし、そうしないと、関係各社、さまざまな人たちがご飯を食べていけないような収益構造がすでに成立してしまった、という事なのだ。
そういうことを考えると、このドラクエの異様な長さが実に悲しいんだなぁ、僕としては。
ドラクエは大好きだったけれど、結局やったのは3まで。今回の作品は8なので、5作品は無視したということになる。ドラクエシリーズは、作家の匂いのしない任天堂関連作品の中でも、唯一と言っていいほど作者の意志がうまく生きているレアケース。
でもやっぱり、「ゲームの儲けの構造」自体に無理があるまま引きずっているというのを強く感じる内容だった。
やっぱり「アタリショックを避ける」、つまり「不幸にならないようにする」発想がまずかったんだよなぁとつくづく思う。
不幸を避けたものは幸福なものではない。「幸福でないもの」をばらまいてるだけだ。罪である。
だからゲームは、文化として定着しなかったのである。過去の名作を世代を超えて引き継ぎ、愛してもらうという構造が作れなかった。
ドラクエを見ていると、そのツケがいまごろになって大きくゲーム業界にのしかかっていることが良く分かる。この大きな失策から立ち直るには、あと10年は最低でもかかるよなぁというのが、僕の正直な感想だ。
まぁ、いろいろ書きましたが、山内氏はもう、過去の人。いまの任天堂の岩田聡社長は、「不幸を避ける」人ではなくて、「幸福を創る人」「喜びを与える人」だと僕は見てます。僕は大好きなんだよなー。岩田さん。あの人はいい!
なのでがんばって欲しいと思います。はい。
コメント