練習することと学習すること。
2005年5月14日 ●ウクレレ長らくずっと、ウクレレに関する話題を書いてませんでした。
人によっては、もうやめたと思ってる人もいてるかも。
いえいえ、とんでもありません。
もう、ほんと、楽しくて楽しくて、ずーっとやってます。
で、最近思うんですね。
練習することというのは、失敗することだよなと。
「あ、あかん、いまのところ違う。」
「あ、また間違えた。」
「ええい、くそ、もう一回最初からやり直しや。」
とまぁ、自分が下手くそであることをずーっと意識し続けることになります。
それでも耐えて、やる。
実は、これがいい。
やってるうちに、失敗することを嫌とも思わなくなりますな。
だってはじめて弾く曲なんて弾けなくて当たり前だもん。失敗して当然。
あと習いに行ってるんですが、この先生がまぁそこそこ厳しい。いやまぁ、あまりに下手な人にはそれなりに優しいんですが、ある程度できてくると、より高い課題を割り当ててくる。
しんどい。
でも、だから良いのですなぁ。
あかん、あかん、あかん。
できん、できん、できん。
そういうシビアな現実認識をずーっとやり続けることになる。
全然弾けてないやん。
あかんやん。
まるでダメだよ。
うへー。
もう二年習いに行ってますけどね、ずーっとこればっかし。
でね、それでも二年もするとね、自分でもうまくなってるのがわかるわけです。
ほんのちょっとなんだけど。
これがまぁやたらとうれしい。
「ああ、成長してるやん、俺。」って思える。
こういうのが生きてる喜びだと私は思っているので。
楽器の合奏とか、音楽理論とか、そういう突き詰めたことに関しては、欧米がとても優れていて、邦楽の世界は理論はからきしです。
でも、楽器を弾く、練習するというような「大衆化」の部分においては、日本人は相当に好きな人が多いらしいんですね。
そんな貴族でもないのに楽器を弾くとか、そういう人は海外では少ないらしい。
なんと言うのでしょうか。
こういう「積み重ねていくこと」「技を磨いていくこと」みたいなことこそが、日本人が精神的にも安定感を持ちながら、堂々と世界、社会と渡り歩いていくための基礎体力になるんじゃないかなぁと、よく考えるんですね。
ほんと、こういうのは大事だと思う。
勉強法についてもちょっと書きましたけど、勉強も同じなんですよねぇ。ちょっと学んでは「あ、違う。この考え方より、こっちの方が断然優れている。」とか、「うわー、そうやったんか、わしが知らんかっただけか。」とか、間違いとか勘違いとか修正して「アカンなぁワシは。まだまだですから。」と思い続けることこそが学習の本質ではないのかという気がしますね。
練習するということと学習するということは似てるなぁ。
それをつくづく思います。
で、この「あかんなぁ」と思い続ける回数っていうのが、練習・学習する前と後では全然違うわけですよ。
もう二桁くらいは違う。らくに。三桁違うか。違うな。うん、三桁違う。
練習する前はちょっと練習したらできるようになるとか思ってる。でもやり出すと百回やそこいらでうまくなれるとか思わなくなる。
本当に楽器練習をするとか、勉強しようと思う人とかは、この違いをわかってる。そんな簡単と違いますよ。ヒマがあったら練習、ヒマがあったら学習ですよ。
とにかく、やらないとダメだもん。やらずにゴチャゴチャ言ってても全然意味ないし。世界が違うもんなぁ。
英語の勉強をやりかけた時もそうだったし、楽器の練習を始めた時もそうだったけど、「こんな調子で練習していたら、一生の間にどの程度できるのかしらん」と考えて気が遠くなって、打ちのめされてしまうわけですね。
でも、だからこそ、もう大急ぎでやらないとダメなわけです。次から次へと練習する。学習する。それこそ、それが大事。迷ったり文句言ってること自体が時間の無駄。人生の無駄遣いだと思う。
練習、練習。勉強、勉強。
で、こんな風に書くと、しんどいばっかりと思うでしょうが、やっぱりやる限りは何らかの充実感は欲しいわけですから、基本はやっぱり、志高くなんですね。
目標が低かったらがんばらないんですよ。高め高めに設定する。それではじめてたくさん練習するし、成長速度も高まるわけですから。
自分に厳しく。なんですね。
それしかないですよ。
練習しない、学習しない、だと、そのままですから。
そのまんまじゃつまんない。
やっぱり。
生き生きと生きていくために必要なこと。
それは、こういうことなんだなぁとつくづく思うわけであります。
人によっては、もうやめたと思ってる人もいてるかも。
いえいえ、とんでもありません。
もう、ほんと、楽しくて楽しくて、ずーっとやってます。
で、最近思うんですね。
練習することというのは、失敗することだよなと。
「あ、あかん、いまのところ違う。」
「あ、また間違えた。」
「ええい、くそ、もう一回最初からやり直しや。」
とまぁ、自分が下手くそであることをずーっと意識し続けることになります。
それでも耐えて、やる。
実は、これがいい。
やってるうちに、失敗することを嫌とも思わなくなりますな。
だってはじめて弾く曲なんて弾けなくて当たり前だもん。失敗して当然。
あと習いに行ってるんですが、この先生がまぁそこそこ厳しい。いやまぁ、あまりに下手な人にはそれなりに優しいんですが、ある程度できてくると、より高い課題を割り当ててくる。
しんどい。
でも、だから良いのですなぁ。
あかん、あかん、あかん。
できん、できん、できん。
そういうシビアな現実認識をずーっとやり続けることになる。
全然弾けてないやん。
あかんやん。
まるでダメだよ。
うへー。
もう二年習いに行ってますけどね、ずーっとこればっかし。
でね、それでも二年もするとね、自分でもうまくなってるのがわかるわけです。
ほんのちょっとなんだけど。
これがまぁやたらとうれしい。
「ああ、成長してるやん、俺。」って思える。
こういうのが生きてる喜びだと私は思っているので。
楽器の合奏とか、音楽理論とか、そういう突き詰めたことに関しては、欧米がとても優れていて、邦楽の世界は理論はからきしです。
でも、楽器を弾く、練習するというような「大衆化」の部分においては、日本人は相当に好きな人が多いらしいんですね。
そんな貴族でもないのに楽器を弾くとか、そういう人は海外では少ないらしい。
なんと言うのでしょうか。
こういう「積み重ねていくこと」「技を磨いていくこと」みたいなことこそが、日本人が精神的にも安定感を持ちながら、堂々と世界、社会と渡り歩いていくための基礎体力になるんじゃないかなぁと、よく考えるんですね。
ほんと、こういうのは大事だと思う。
勉強法についてもちょっと書きましたけど、勉強も同じなんですよねぇ。ちょっと学んでは「あ、違う。この考え方より、こっちの方が断然優れている。」とか、「うわー、そうやったんか、わしが知らんかっただけか。」とか、間違いとか勘違いとか修正して「アカンなぁワシは。まだまだですから。」と思い続けることこそが学習の本質ではないのかという気がしますね。
練習するということと学習するということは似てるなぁ。
それをつくづく思います。
で、この「あかんなぁ」と思い続ける回数っていうのが、練習・学習する前と後では全然違うわけですよ。
もう二桁くらいは違う。らくに。三桁違うか。違うな。うん、三桁違う。
練習する前はちょっと練習したらできるようになるとか思ってる。でもやり出すと百回やそこいらでうまくなれるとか思わなくなる。
本当に楽器練習をするとか、勉強しようと思う人とかは、この違いをわかってる。そんな簡単と違いますよ。ヒマがあったら練習、ヒマがあったら学習ですよ。
とにかく、やらないとダメだもん。やらずにゴチャゴチャ言ってても全然意味ないし。世界が違うもんなぁ。
英語の勉強をやりかけた時もそうだったし、楽器の練習を始めた時もそうだったけど、「こんな調子で練習していたら、一生の間にどの程度できるのかしらん」と考えて気が遠くなって、打ちのめされてしまうわけですね。
でも、だからこそ、もう大急ぎでやらないとダメなわけです。次から次へと練習する。学習する。それこそ、それが大事。迷ったり文句言ってること自体が時間の無駄。人生の無駄遣いだと思う。
練習、練習。勉強、勉強。
で、こんな風に書くと、しんどいばっかりと思うでしょうが、やっぱりやる限りは何らかの充実感は欲しいわけですから、基本はやっぱり、志高くなんですね。
目標が低かったらがんばらないんですよ。高め高めに設定する。それではじめてたくさん練習するし、成長速度も高まるわけですから。
自分に厳しく。なんですね。
それしかないですよ。
練習しない、学習しない、だと、そのままですから。
そのまんまじゃつまんない。
やっぱり。
生き生きと生きていくために必要なこと。
それは、こういうことなんだなぁとつくづく思うわけであります。
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